「deadpan」
無表情な[に],何食わぬ態度の[で],感情のこもらない,感情をこめずに.
無表情な顔(で演技)をする,さりげない態度をとる.
さりげない[何食わぬ]態度[表情]で言う[書く,表現する].
「tragicomedy」
悲喜劇;悲喜劇的状況[できごと]
TSUTAYAなんかに行って、DVDなんかを借りるとき、ジャンルに分かれて棚に並んでいることがほとんどです。
もちろん、店によって違いはありますが、「ドラマ」だったり「恋愛」だったり「ホラー」だったり「コメディ」だったり。また「ドラマ」の棚でも区分けされていて「ヒューマン」だったり「シリアス」だったり「その他」があったりします。大きな店舗に行くと、監督別や出演者別の棚があったりもします。
そんな中で「アルノー・デプレシャン」のコーナーを見つけたときは驚きました。
東京都内の都心から離れたところにある大きいとはいえないレンタル店で、誰かがアルノー・デプレシャンを求め、棚を前にしてケースを手に取る。
その光景を想像すると世の中は可能性に満ちているんだなと思う。
そのジャンル別の棚に『デッドパン・トラジコメディ』というのがあってもいいと僕は思います。
その棚には、
『アイズ・ワイド・シャット』
『アメリカン・スプレンダー』
『アメリカン・ビューティー』
『ゴーストワールド』
『サイン』
『ストレイト・ストーリー』
『ばかのハコ船』
『パルプ・フィクション』
『バッファロー'66』
『ブロークン・フラワーズ』
『マルコヴィッチの穴』
『リアリズムの宿』
『セクレタリー』
『リミッツ・オブ・コントロール』
が並んでいたりする。
僕がこの言葉に持たせたい意味合いは、『真顔で行われる[演じられる]悲喜劇を扱った映画』です。
似たような言葉でポーカーフェースという言葉がありますが、僕の中では、デッドパンのほうがより無表情という印象を持っています。パン(pan)に は、人相や顔という意味があり、それが死んでいるわけだから、もし無表情と豊かな表情というバロメーターがあれば、デッド・パンとは、無表情のほうに針が振り切っている状態のことを指している、と解釈できます。
何事かを分類に割り振るのは苦手ですが―あらゆる物事の解釈は個人的なものであり、たとえ個人的解釈を集計して、同一のものが大多数を占めたとしても、それを分野としてカテゴライズするのは非常に危険な行為だ。歴史がそれを証明している―映画の背骨を開いてみて、髄液のように「デッドパン・トラジ コメディ」が流れている、と捉えられる場合は、そういう呼び名があっても良いと僕は思う。
これは僕の個人的解釈です。
例として挙げたタイトルは、血液型こそ違えど、デッドパン・トラジコメディが、映画の背骨に髄液として流れている、と僕が思う作品です。
映画の切り口[語り口]も、演者[の扱い方]もナックル・ボ-ル的な変化球だ。とはいっても、僕は野球のことをほとんど何も知らない。おそらくこういうときはナックル・ボールと言うのだろうという憶測でものを書いている。
『ストレイト・ストーリー』なんかは、道はまっすぐだが、映画としてはヘアピン・カーヴもいいところだ。とはいっても、僕はカー・レースのこと を何も知らないし、何より、普段自動車には乗らないことにしている。
僕は、映画を観ていて「監督はどういうつもりでこのシーンを撮影したのかな」とよく考えます。映画を制作する過程において、監督はすべてのシーンを何度も何度も推敲します。だから、ときにはここはデッドパンでなければいけないと強く求めるときがあることでしょう。メソジストが生活の中に厳格な規律を求めるように。
監督にとっては、全てのシーンのあらゆる細部にいたるまで意味と目的がある。城が動いていたとすれば、城が動かなければならなかった理由があったからであり、デッドパンで演じていたとすれば、デッドパンでなければいけなかった理由があったからである。そうやって撮影し、編集し、作品になったものを娯楽作品として観ています。
もし、シーンの目的を理解していない俳優が、大げさに、感情豊かに演じたとしたら、監督はその俳優に適したやり方で指導し、デッドパンの演技を引き出すに違いありません。演出と呼ばれる行為です。
そうすることによって悲喜劇は意味を深め、奥行きを持ち、観ている人の心に浸透していき、尾をひく映画となる。
そういった、監督がひそかに―またはこれ見よがしに―入れたとっておきのスパイスが味わえる映画が最近増えてきているように思えます。デッドパン・テイストの好きな僕にとっては非常に好ましい傾向です。
僕は料理はする。
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