2010年8月26日木曜日

教材映像として見る 映画『グラン・トリノ』






先日、改めて映画『グラン・トリノ』を見ていたら、何度も笑える場面があって感動してしまいました。






初めて見たときは、あの結末があまりにもドラマティックで、そこに納得がいかず、「これだからクリント・イーストウッドは」と思って、くしゃくしゃに丸めて映画のゴミ箱の中に放り込んでしまいました。


イーストウッドの映画って"あまりにもドラマティック"なものばかりですよね。
見ていてまずそこが鼻につくんです。偉そうに書いてますが、"あまりにもドラマティック"ですよね。



『ミリオンダラー・ベイビー』といい、『チェンジリング』といい、硫黄島といい、星条旗といい、過去の土埃と拳銃ものといい、なぜかイーストウッド作品とは(それこそ)ウマが合わない。



ですが、『ミスティック・リバー』のショーン・ペンの演技はどこにも比類しない素晴らしいものです。




*** 注 ***

映画『ミスティック・リバー』を未見の方はまず本編を見てください。本当に素晴らしいシーンですから。









二十代前半、朝鮮戦争に兵士として戦地に赴いた過去を持つウォルト・コワルスキー(年齢は70歳くらいだろうか)。

ポーランド系アメリカ人の彼は、ミシガン州の工業都市デトロイトの郊外にある白人居住区に住み、自動車メーカー"フォード"に50年間勤め、結婚し、子供を二人育て上げた。


その彼の妻の葬式シーンで映画は始まる。






ウォルト・コワルスキーは、無愛想で堅物、そして、とにかく口が悪い。
JapやChink、spookは当たり前、zipperhead、gook、なんていう人種差別的発言も平気でする。




妻に先立たれたウォルト(と若い神父が言うと「ミスター・コワルスキーと言いなおせ」と睨む)は、老いた愛犬のデイジーの世話や、庭の整備と自宅の修繕をして、玄関ポーチのベンチに座り、磨き上げた1972年製のフォードの"グラン・トリノ"を眺めながら煙草に火をつけて、冷えたビールを飲み、残された余生をそれなりに平和に過ごすはずだった。






だが、隣家にアジア系モン族の一家が引っ越してきたことをきっかけにウォルトの生活は変化していく。










最初に、感動したと書いたが、感動したのはあの取って付けたような"あまりにもドラマティック"なエンディングにではない。

(皆はっきりと口に出さないまでも)人種差別が当たり前のデトロイトの郊外で、戦争を背負ったまま生きている堅物なじじいがそれらをジョークにしてしまっていることだ。



面白いシーンはいくつもある。

亡き妻が熱心に通っていた教会の神父がウォルトのもとにやってきて、「私が死んだら罪を抱えて苦しんでいる夫のことを頼むと、生前の奥さんは言っていた」と言う。「そして、どうか夫に"告解"をさせてやって欲しい」

ウォルトは神父を害虫のように払いのける。だが神父は諦めることなく再度ウォルトの家を訪問する。
そして、そこでウォルトにこう言われる。


Well, I think you're an over-educated 27-year-old virgin who likes to hold hands of ladies who are superstitious and promises them eternity.







通っている床屋の店主と悪態を交し合うシーンも素晴らしい。



店主マーティン(以下M) "There. you finally look like a human being again. You shouldn't wait so long between haircuts, you cheap son of a bitch."

ウォルト(以下W) "Yeah. Well, I'm surprised you're still around. I was always hoping you'd die and they'd get somebody who knew what they were doing. Instead you just keep hanging around like the doo-wop dago you are."

M "That'll be 10 bucks, Walt."

W "Ten bucks ? Jesus Christ, Martin. What are you, half Jew or something ? You keep raising the prices."

M "It's been 10 bucks for the last five years, you hard-nosed, Polack son of a bitch."

W "Yeah, well, keep the change."

M "See you in three weeks, prick."

W "Not if I see you first, dipshit."






そして、隣家のモン族の娘スーが黒人の三人組に絡まれているのを助けるシーン。





そのスーに誘われて隣家で行われているパーティーに(ビールを飲みために)同席するウォルト。

そこでウォルトは、異教徒の占い師という胡散臭い男に、妻にも(もちろん神父にも)打ち明けることのできなかった核心をつくことを言われる。

自分の周りを見ると、モン族の人たちが集まり、食事をして、語らい、くつろいでいる。


ウォルトがそこでつぶやいた一言こそ、この映画の核心でした。

"God, I've got more in common with these gooks than I do my own spoilt rotten family."

僕がこの映画で最も感動したのはこのシーンです。















そこで思いました。この『グラン・トリノ』。素晴らしく優れた教材映像なんではないかと。
もし、それを説明できる教師がいれば。


まず、アメリカ建国の歴史と現在までの推移、デトロイトにおける人種間コミュニティの違い、朝鮮戦争におけるモン族の存在、アメリカ内での隣人感覚的なポーランド系(ユダヤ系、イタリア系)アメリカ人の捉われ方。

その中心にあるものは、日本の歴史や関係性の齟齬にも通じるものがある。














『グラン・トリノ』 (『GRAN TORINO』)
(2008)

監督,製作,出演,クリント・イーストウッド(Clint Eastwood 1930.05.31- )

脚本,ニック・シェンク(Nick Schenk - )

撮影,トム・スターン(Tom Stern 1946.12.16- )

衣装デザイン,デボラ・ホッパー(Deborah Hopper - )

音楽,カイル・イーストウッド(Kyle Eastwood 1968.05.19- )

出演,ビー・ヴァン(Bee Vang 1991.11.04- )

アーニー・ハー(Ahney Her 1992 - )

クリストファー・カーリー(Christopher Carley 1978.05.31- )

ジョン・キャロル・リンチ(John Carroll Lynch 1963.08.01- )

スコット・リーヴス(Scott Reeves 1986.03.21- )





映画『グラン・トリノ』オフィシャルサイト











2010年8月21日土曜日

お金が人を幸福にしない理由




お金が人を幸福にしない理由:心理学実験から | WIRED VISION





興味深いことに、事前に大量のユーロ紙幣を見せられた被験者たちは、経験を楽しむ能力のスコアが有意に低かった。この結果は、人間はただお金の画像を見るだけでも、人生の小さな喜びを楽しむことへの興味が薄れる可能性を示唆している。


お金の画像を見るだけで人は薄幸になる。

そうなんだ。すごい生き物ですね。人間って。




映画『ヴィレッジ』を思い出しました。あれって「アーミッシュ」なんですね。


膨大な財産を使い、自分たちの親族を現世から完全隔離して共同生活を行う。これって凄く有効なお金の使い方だと思います。方向性さえ合っていれば。

お金のことについて語っている人はたくさんいますが、そろそろ現実世界でも有効にお金を使ってる人を見てみたい。


でかい家建てて、複数の車を所有して、諸欲に走るのはもう見飽きました。













以下、全文転載。



Jonah Lehrer

画像はWikimedia


お金は、必ずしもわれわれを幸せにはしない。貧困レベルを脱すると、「富のレベル」は「幸せのレベル」にそれほど大きな影響を与えない(特に先進国では)。歴史上最も豊かな国と考えられる21世紀の米国でも、人生に満足できない人たちが増えてきているようだ。


お金と幸福が単純に比例しないということは、「お金はなぜ人を幸福にしないのだろうか?」という興味深い問いを生む。この問いに対して、先ごろ『Psychological Science』誌に発表された研究が、1つの回答を出した。


ベルギーのリエージュ大学の心理学チームが行なったこの研究は、[ハーバード大学の]心理学者Daniel Gilbert(ダニエル・ギルバート)氏が提唱した「実際の経験によって幸せの尺度が拡張される」という(experience-stretching hypothesis)を検証したものだ。[未来を予想しているときは幸せだが、実際に経験すると簡単には満足できなくなるという説。ダニエル・ギルバート氏の邦訳書は、『幸せはいつもちょっと先にある―期待と妄想の心理学』(早川書房)]


リエージュ大学のチームは、お金は人が最高に贅沢な喜びを味わうことを可能にする(贅沢なホテルに泊まり、高級な寿司を食べ、素晴らしいガジェット を買える)が、それゆえに、日常のありふれた喜び(天気の良さや冷えたビール、チョコレートなど)を味わう能力を低下させると考えている。そして、われわ れが遭遇する喜びのほとんどはありふれたものであるため、贅沢をする能力を得ることは、喜びを味わう能力にとっては、かえって逆効果になるのだという。


研究チームは、リエージュ大学の成人職員351人(用務員から上級管理担当者まで)を集めてオンライン調査を実施した(筆者注:幸福など、人生の充 足度に関する要素を、今回のような多肢選択式のテストを用いて有意に測定できるかどうかは、現時点ではまだ明確になっていない。そのため、結果の解釈には 注意が必要だ)。


研究チームはまず、[ランダムに分けられた2グループのうち]半数の被験者に対して、山のように積んだユーロ紙幣の画像を見せた後、彼らの「楽しむ能力」を測る一連の質問を行なった。


テストでは、重要な課題をこなす(充足感)、遠出してロマンティックな週末を過ごす(喜び)、ハイキング中に見事な滝を発見する(畏敬の念)とい う、いずれかの経験を想像するよう求められる。いずれのシナリオも、それに対する反応として8通りの選択肢がある。そのうち4つは、[初めに紹介した]経 験を楽しむ反応だ(肯定的な感情を表わす、その瞬間の気分を楽しむ、その出来事を楽しみに待つ/追想する、その経験について他人に話す)。被験者は、その ような状況下で自分が通常とるはずの行動を最もよく表わしている反応を、1つまたはそれ以上選ぶように求められ、経験を楽しむ選択肢を1つ選ぶごとにポイ ントを1つ獲得する。


興味深いことに、事前に大量のユーロ紙幣を見せられた被験者たちは、経験を楽しむ能力のスコアが有意に低かった。この結果は、人間はただお金の画像を見るだけでも、人生の小さな喜びを楽しむことへの興味が薄れる可能性を示唆している。


さらには、現実に多くのお金を稼いでいる被験者ほど(被験者は全員、収入を尋ねられた)、楽しむ能力を測るテストのスコアが有意に低かった。その 後、カナダの学生を対象に行なった実験も、最初の実験と同様の結果となった。事前にカナダ・ドル紙幣の画像を見せられた学生の方が、出されたチョコレート を味わって食べる時間が短かったのだ。以上の研究について、研究チームは寒々しい調子で次のようにまとめている。


われわれの研究は、人間の楽しむ能力に関しては、富を連想させるものを見るだけでも、実際に富を得るのと同じ有害な影響が生じることを示している。 楽しいことを経験できるという認識を持つことは、それだけで、日常の楽しみを損なうのに十分な効果があると考えられる。言い換えれば、人間の楽しむ能力を 低下させるために、実際にエジプトのピラミッドを訪れたり、有名なカナダのバンフの温泉に1週間滞在したりする必要はないということだ。そのような最高に 楽しいことはたやすく経験できるという認識を持つだけで、日々の小さな喜びは、あって当然のことと捉える気持ちが強まる可能性がある。


この研究で私が思い出すのは、アーミッシュだ。彼らは自動車やインターネットを持たず、銀行や郵便さえも利用しない。そして、幸福感を尺度で表して もらうと、アーミッシュたちの満足度はForbes400(Forbes誌が認定する世界の富豪)の満足度に匹敵するのだという。


アーミッシュの満足度には、安定した家族や人間同士の絆の強さ、信仰の深さなども関係しているだろうが、その一部には、「実際の経験によって幸せの 尺度が拡張される」という理論も関係してくるのではないだろうか。彼らは、最新のiPhoneや新しいレストランや流行のファッションとは関係の無い生活 を送っている。それゆえに、人生の本質的な部分を楽しめる能力が優れているのかもしれない――それらは全て、お金では買えないものなのだ。


[アーミッシュは 米国の一部に住むキリスト教の一派で、近代以前の生活様式を守っている。アーミッシュの子供は16歳になると、一度親元を離れて俗世で暮らす「ラムスプリ ンガ(rumspringa)」という期間に入る。ラムスプリンガではアーミッシュの掟から完全に解放され、特に時間制限もない。ラムスプリンガを終える 際に、アーミッシュと絶縁して俗世で暮らすかどうかを選択するが、ほとんどはアーミッシュであり続けることを選択するとされる。この模様は 『Devil's Playground』というドキュメンタリー映画の中で語られている]



オハイオ州のアーミッシュ。画像はWikipedia
[日本語版:ガリレオ-高橋朋子/合原弘子]

2010年8月20日金曜日

啓蒙かまぼこ新聞







著作『せんべろ探偵が行く』 で、千円でべろべろになるまで飲める店を紹介した中島らもさん。



2004年7月16日未明、神戸某所の飲食店の階段から転落して全身と頭部を強打。脳挫傷による外傷性脳内血腫のため神戸市内の病院に入院。
その後、意識が戻る事は無く、事前の本人の希望に基づき、人工呼吸器を停止。同月26日午前8時16分に死去。享年52歳。

中島らも - Wikipedia







(若さだけで生きていけると思っていた)ある日、酒を飲んで、翌朝目が覚めたら自宅だったことがあります。
店を出て、家にたどり着くまでの記憶が一切なく、よく帰り着けたなと「帰巣本能」でも働いたかと感心していたのですが、全身に強い痛みが。
見てみると体や顔に青アザを通りこえた黄色いアザがあった。(完全に細胞が死んでいる色だった)

どこでどうなったのかも記憶にない。



このことを思い出すとき必ず中島らもさんのことが頭を横切る。
もちろん直接は知らないし、著作や活動に詳しいというわけでもないけれど、このエピソード(酩酊状態で階段を転げ落ち、意識不明になり、そのまま、という)だけは強烈な印象を保ち続けています。


映画『リービング・ラスベガス』もそうですが、すぐにでもアルコールの依存から脱け出さなければ(ある程度の実感を伴う経験をした後、故人と同じようなことしてちゃ、後に生まれてきた意味がないでしょ)と強く思うほど「のめり込み度」が深すぎる。




そんな(どんな?)中島らもさんの著作『啓蒙かまぼこ新聞』の解説に村上春樹さんの名前が。




『中島らもとニュー・ウェストの抬頭』という題名で書かれた文章。日付は一九八六年九月とあります。ということは村上春樹さんが37歳の時に書いたということです。

文中にもありますが、長期の海外旅行前の忙しい最中に書いた、とあります。
1986年10月に村上春樹さんは日本を離れ、(結果三年間)ギリシャやイタリアなどで暮らし、『ノルウェイの森』、『ダンス・ダンス・ダンス』を執筆されていますから本当に直前のことだったようです。


いったい、どういう経緯で解説を書くようになったのかは分かりませんが、文中から察すると、「中島らもさんの書く文章に好意を持っている」、「村上春樹さんと中島らもさんの出身地が関西(阪神間型)ということが関係している」、「食べ慣れ親しんだ『かねてつのカマボコ』」がその理由として挙げられますが、本当のところはやはり分かりません。


ともかくも、
村上春樹さんが若いときに書かれた文章には、今の村上春樹さんからは出てこない特徴がいろいろとあって面白い。 ヘミングウェイの文章のことを「餃子食って寝っ転がってるみたいな文章」(『ウォーク・ドント・ラン』 詳細の記憶は曖昧です)だと表現したりだとか。

この『中島らもとニュー・ウェストの抬頭』には村上春樹さんの奥さんが(そして、その奥さんの妹さんも)登場します。

村上春樹さんの奥さんが登場するエピソードに外れなしだと僕は思っています。
ボヤキとケナシ役の奥さん、とステイ・クールを気取る旦那がやりとりする夫婦漫才みたいなんですよね。






そんな(一度も会ったことがない)中島らもさんの文章の魅力を村上春樹さんはこう書いています。

僕が中島らもの文章を好むのは、そういう「実在感の消し方」がわりに好きだからである。たぶんこの人には本質的なてれがあって、それでごく自然にこういう文章とか文脈で物事を処理しようという方向に流れていくのだろうと思う。僕は実際に中島らもに会ったことがないので、正確には何とも言えないのだけれど、たぶんそういう人じゃないかと思う。てれて、てれて、放っておくとそのままどんどん物事の泥沼的側面にはまりこんで抜けだせなくなるというタイプである。だから物事の本質を意識的に稀釈していくことで自己を救済しようと努めているのではないかという気がする。







『啓蒙かまぼこ新聞』

著者,中島らも

出版社,ビレッジプレス

2010年8月17日火曜日

ジブリ 創作のヒミツ





現在公開中の映画『借りぐらしのアリエッティ』。


借りぐらしのアリエッティ 公式サイト



監督に抜擢されたのは、1973年生まれの米林宏昌さん(37歳)。
近藤喜文さんの初(で最後の)監督アニメーション作品『耳をすませば』に感動して、スタジオジブリへの入社を決意したという。




米林宏昌(呼称マロ)さんが監督に抜擢された経緯は、鈴木プロデューサーがどこかで発言されていたのを見て知っていました。



新作の監督を誰にするのかと宮崎監督に聞かれたとき、鈴木プロデューサーはとっさに「マロがいいと思う」とおっしゃったそうです。

候補として挙がるならこの人だろう、という共通の認識すら持てないほど人材がいないということなのでしょう。



スタジオジブリでの新人監督の抜擢は今回が初めてのことではありません。
劇場版長篇作品でいえば、過去に近藤喜文さん、森田宏幸さん、宮崎吾朗さんが起用されましたが、第二回監督作品を作った人は一人もいません。

近藤喜文さん(『耳をすませば』)は病気でお亡くなりになりましたし、森田宏幸さん(『猫の恩返し』)は移籍(?)でしょうか。
宮崎駿監督の実子である宮崎吾朗さん(『ゲド戦記』)は、原作者が「冒涜」と言うほどの駄作を作ってしまいました。


ゲド戦記Wiki - ジブリ映画「ゲド戦記」に対する原作者のコメント全文





後継者が育たない土壌。


原因は、宮崎駿監督の色があまりにも濃すぎるためです。

起用された新人監督に対し、クリエイターとして(時に一人の突出したエゴを持つ人間として)真っ向から衝突するのを辞さない、というのが宮崎駿監督のやり方でした。











『借りぐらしのアリエッティ』を制作している間、宮崎監督は何をしていたのか。鈴木プロデューサーは宮崎監督に何か言ったのか。米林宏昌監督とはどういう人物なのか。






2010年8月10日(火)、NHk総合で放送されたテレビ番組、『ジブリ 創作のヒミツ 宮崎駿と新人監督 葛藤の400日』


この夏、公開のジブリ最新作「借りぐらしのアリエッティ」、その制作の舞台裏の長期密着ドキュメントに加え、スタジオではCGを駆使しジブリ映画の魅力を徹底解剖する73分のスペシャル番組。
今回の作品は、脚本を宮崎駿(69)が担当、だが監督は36歳の全くの新人。これまで宮崎の下で活躍して来た敏腕アニメーターを大抜擢したのだ。その背景には、新たな“才能”を育ててこれなかったという強い危機感がある。実は、これまでも幾人もの若手が監督を任されてきたが、宮崎はその強いこだわり故に作品作りに介入、最後には乗っ取ってしまうことも多かった。そこで今回、宮崎は作品に介入しないと決めた。その一方で手助けなしで映画を作りきることを強いられた新人監督には圧倒的な重圧がのしかかる。
師弟の心のドラマを描く密着ドキュメントに加え、スタジオでは見る者の心を揺さぶるジブリ映画の“絵に命を吹き込む”創作のヒミツを徹底的解剖する。

NHKナツトクnavi 夏の特集番組2010 より




鈴木プロデューサーが出演しているラジオ番組に、その答えに近づく手がかりがありました。



『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』










『ジブリ 創作のヒミツ』で米林監督に密着したのは、NHKのディレクターである細田直樹さん(31歳)。細田さんを起用したのはスタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫さんだという。



番組は、俳優の大森南朋さん(38歳)のナレーションが付随している米林宏昌監督を主としたアニメーション映画制作の日々に密着している映像と、番組スタジオで行われているという体(てい)で、タレントの広末涼子さん(30歳)による司会進行パートで構成されていました。







2010年7月23日。スイス南部・フィーシュで観光列車「氷河特急」が脱線して、日本人女性1人が死亡、42名の重傷を含む被害者が出た事故が起こりました。
そして、24日、鉄道会社などが会見し、事故原因は設備上の問題や人的ミスが複合的に絡んでいる可能性があるとの見解を示しました。

設備の問題や人的ミスが複合か スイス脱線 | 日テレNEWS24


映像では、鉄道会社のCEOが出演し、「原因は施設の老朽化や人的ミスが重なった複合的なもの」と発言していました。
(事故調査の最終段階で、原因は「運転士が制限速度を超えて運転した人的ミスだった」との結論に達した、とのことです)


複合的な要素に基づく結果。
スイスの脱線事故がどうであったかは別として、いくつかの要素が複雑に絡み合って起こり得た結果、というのは理解しがたい、といいますか、把握しきれないようです。

その割合がどんなものであれ、最も多くを占める要素にフォーカスを当てなければ大衆は満足しない、という傾向にも当てはまるようです。











『ジブリ 創作のヒミツ』ではタイトルの通り、「アニメーション制作会社であるスタジオジブリの後継者養成」、「新人監督の大抜擢」、「宮崎駿監督という存在」に焦点が当てられていました。








「一番責任を背負った(しょった)人間が必死に考えて、これがよかろうってとこに辿り着くしかないんですね」

「ああしろ、こうしろっていう風に、細々と注文をつけるのは、やっぱり角を矯めて牛を殺すことになるんです。だからそれはやっぱりやっちゃいけないとこなんですよ。乱入するのは一見簡単だけど、それで鼻面つかまえてあっち行けこっち向けってやってね、いい結果になるはずはないから」


少し痩せたように見える宮崎駿監督は言う。


そして、「自らが監督を務められるのはあと一本」だとも。







『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』の中で細田直樹さんが出演しているのは、第138回と第150回。

この、NHKのディレクターである細田直樹さんという方は、非常に強い特徴の声をしていました。

その声から、他者にコントロールや誘導されることを極端に嫌い、自分の信ずる道を何よりも優先する。そういう印象を受けました。




スタッフと極少数の関係者のみで行われた『借りぐらしのアリエッティ』の初号試写会。

絵コンテもラッシュも一切見なかった宮崎駿監督が完成した映画を見て、どういう反応をするのか。誰もがそれを見守っていた。
上映後、宮崎駿監督は米林監督の手を取り、高く掲げた。そして「彼は本当によくやりました」と言う。

父親が息子を褒めるように。

場内は拍手が鳴り続けていた。





それを映像に撮っていた細田さんはその時のことを振り返り、こう言う。
「マロさんの側に一瞬完全に立って、良かったと思いましたけども。ふと、これは本当に100%本心なのか、何10%かは立場とか存在としての役割としての意識があっての行動なのかと思いましたし、今でもその割合は本人のみが知る――本人もどれくらい認識されているか分からないですけれど、今もってまだ藪の中です」

鈴木プロデューサーはこう返す。
「でも終わった後ね。控え室に入ったでしょ。あの時の宮さんはどういう感じでしたか?」

細田
「あの宮崎さんを見ると、パフォーマンスじゃない、というか」

鈴木
「興奮なんですよ、あれは」

細田
「そうですね」

鈴木
「何しろ本人は、マロが(控え室に)来た瞬間、なんて言っちゃったか。『おれ、泣いちゃったよ』て言ったんだよ。あれは何ですか?」

細田
「また、これ難しいんです。泣いちゃったよの意味っていうのは」










そして、終盤。

鈴木
「マロは面白いやつですか?」

細田
「面白いですね。まだね、これだけ居させてもらって分かんないと思ってることの方が遥かに多いんですよね。つかめない感じがするんです。同僚の方たちも(マロのことは)つかめないと言ってる方が多かったですね。誰か、私はマロさんのことをつかんでる、という風に自信を持ってる方が果たしているんだろうかとも僕は思っています」

鈴木
「つかんでみたくないの?」


(中略)


鈴木
「次、マロが作るときにね、細田さんも手伝ってみたいと思わない?」

伊平容子さん(アシスタント・プロデューサーと思われる)
「えっ、鈴木さんと宮崎さんのような、そういう関係ってことですか?」

鈴木
「いや、分からない。それは自分がどう受け止めるか」

伊平
「一生で、まあ、何人の人と真剣に向き合うかっていうことも含めて」

鈴木
「そうそうそう」






鈴木
「やるべきだと思うよ」

















宮崎駿監督が(少数の人に痛烈に批判されながらも)これほど多くの人々に評価されているのは、もちろん、いくつかの要素が複合的に重なっているからです。

アニメーターとしての高い能力。魅力的なキャラクター造形。膨大かつ実践的な知識量。実感を伴う高い空想力。他者を圧倒する個性、が挙げられます。

そして、それら全てを総動員し、物語の深みに誰よりも深く潜ることで、非常に優れたストーリーの語り手と成り得ています。




その能力は『千と千尋の神隠し』で最大限に発揮され、『ハウルの動く城』である到達点に達しました。




あれほどまでに深く物語に潜り、この二作品を残せたことは驚異的なことです。













海の上のブイのようにいくつかの疑問が浮かんできます。


米林監督に物語を語る能力は備わっているのでしょうか。

そして、もし、次回作があるとすれば、細田さんは何を考え、どう動くのでしょうか。

2010年8月14日土曜日

『アドベンチャーランドへようこそ』

  



映画『ゾンビランド』に主演し、デヴィッド・フィンチャー監督最新作『ソーシャル・ネットワーク』にも主演が決定しているジェシー・アイゼンバーグ。





(本当のところはともかくとして)筋肉質ではなくどちらかというと細身で、常に悲哀を含んだ表情をし、神経質的な側面を持っている。

なぜだか知りませんが(常に強い人間像にはリアリティがない、というのが理由の一つみたいです)、ここ最近の若手男性俳優が演じる役柄に当てはまる特徴だと思います。




マイケル・セラであったり、


ジョセフ・ゴードン=レヴィットであったり、



ポール・ダノであったり、


ロバート・パティンソンであったり、








こんなことを書いてはなんですが。上記の中でも一番売れ線ではないような感じ(失礼ですよね、ほんとに)がしているジェシー・アイゼンバーグですが、ここ最近の出演作の当たり感は一体何なんでしょうか。


20世紀を牽引した(気づく、気づかないは別として、その牽引は2001年をもって消滅しました)アメリカ合衆国ニューヨーク市のユダヤ系の家庭に生まれ、

道化師の母親と大学教授である父親を持つ。ニュージャージー州にある高校を卒業後、ニューヨーク大学へ進学して映画学科を専攻。 1999年にテレビシリーズの『ゲット・リアル』で俳優デビューを果たし、テレビ映画やインディーズ映画などでキャリアを重ねていく。

ジェシー・アイゼンバーグ - Wikipedia

実の妹であるハリー・ケイト・アイゼンバーグは、映画『ポーリー』の主演で有名になりました。








そんなジェシー・アイゼンバーグの当たり出演作が『アドベンチャーランドへようこそ』です。

なんと劇場未公開。







1987年アメリカ、夏。
なんだかんだあって、夏休みの間、田舎町にある家族経営で成り立っているような小規模な(しょぼい)遊園地"アドベンチャーランド"でバイトしなきゃいけなくなったジェイムズ・ブレナン(ジェシー・アイゼンバーグ)。

その"アドベンチャーランド"でジェイムズ・ブレナンは個性的な友人や魅力的な少女に出会い、なんだかんだあったりします。








監督は『スーパーバッド』のグレッグ・モットーラ。


共演はクリステン・スチュワート。










『アドベンチャーランドへようこそ』 (『ADVENTURELAND』)
(2009)

監督,製作,脚本,グレッグ・モットーラ(Greg Mottola 1964 - )

製作,シドニー・キンメル(Sidney Kimmel - )

製作総指揮,ウィリアム・ホーバーグ(William Horberg - )

出演,ジェシー・アイゼンバーグ(Jesse Eisenberg 1983.10.05- )

クリステン・スチュワート(Kristen Stewart 1990.04.09- )

マーティン・スター(Martin Starr 1982.07.30- )

ビル・ヘイダー(Bill Hader 1978.06.07- )

ペイジ・ハワード(Paige Howard 1985.02.05- )

クリステン・ウィグ(Kristen Wiig 1973.08.22- )

マルガリータ・レヴィエヴァ(Margarita Levieva 1980.02.09- )

ライアン・レイノルズ(Ryan Reynolds 1976.10.23- )