つがいのダチョウを自宅で飼うためには の追記です。
ちなみに「つがいのダチョウを自宅で飼うためには」
とは、雑誌「アンアン」にて連載が再開された村上春樹さんのエッセイ『村上ラヂオ』の中にある「パーティーが苦手」から。
パーティーが大の苦手であるという内容に始まり、「これなら暗いじめじめした洞穴の奥で巨大カブトムシと素手で格闘していた方がまだましだと思う」とまであります。
その後に、村上春樹さんが考える理想的なパーティーの描写が続く。
人数が十人から十五人。物静かな声で語り合い、誰も名刺の交換なんかせず、仕事の話もせず、部屋の向こうでは弦楽四重奏団がモーツァルトを端正に演奏し、人なつっこいシャム猫がソファで気持ちよさそうに眠り、おいしいピノノワールの瓶が開けられ、バルコニーからは夜の海が見渡せ、その上に琥珀色の半月が浮かび、そよ風はどこまでもかぐわしく、シルクフォンのドレスを着た知的な美しい中年の女性が、僕にダチョウの飼い方について親切に丁寧に教えてくれる。
「つがいのダチョウを自宅で飼うためにはね、村上さん、少なくとも五百平米の敷地が必要とされます。塀は二メートルの高さがなくてはなりません。ダチョウは長命な動物で、八十歳をこえていきることもあり……」
といった風に。
つがいのダチョウの飼い方を教えてくれようとするシルクフォンのドレスを着た知的な中年の女性。これはもちろん村上さんの創作したキャラクターだと思います。でも、どこか現実味(まったくないわけではないだろうという雰囲気)を帯びていてそれでいてミステリアスな存在。
そんなパーティーがあるなら僕だって参加したい。
おいしいピノノワールだって飲みたい。
毎年行われるバーベキューがとりやめになり、何の予定もない4日間を埋めるべく知人に「静かで落ち着けるところを知りませんか?」と聞いたところ、新潟県にある貝掛温泉は無音で人も少ないと。
もちろん、4日もあるんだから、いっそのことハワイとか、それこそカリブ海とかに出かけて、ビーチボーイズの曲なんか聴いちゃって、キューバ・リブレとかマイタイとかトロピカルなカクテルなんか頼んじゃったりしてもよかったんです。
実際に行ったとしましょう。カリブ海だとかに。
輝く太陽の下、ビーチチェアーでくつろいで、フィッツジェラルドの短篇集なんかを読みながらトロピカルなカクテルを飲む。
そして、夢のようなサンセットを見る。
人によって旅に求めるものは違います。
このときの僕が旅に求めていたものは、完全に近い静寂と、自然に囲まれた心地よい空間、そして旅先で起こる予定調和を超えたハプニング。
旅先では日常のルーティンにはない「もしもあの時こうしていれば」といった出来事が高い可能性で起こる。すべてが一期一会でその瞬間瞬間の判断によってその後は変化していく。
東京都から貝掛温泉まで、ナビで調べると190kmある。
確かに魅力的な温泉地ですが、190km。
時速60kmで走り続けたとしても3時間超かかる。
金曜日の仕事を終え(そう金曜日の夜に出発しようとしていました)、身体の疲れはエマージェンシーランプが点灯するくらいでした。
どうせ新潟県に行くのなら、前々から行きたかった新潟県村上市にも行きたい。
海もあるし、山もあるし、川もあるし、うまいと評判の地酒〆張鶴もある。
村上市までナビで調べると、370km。
370km。
いいや。考えても始まらない。とにかく向かおう、と車を動かしたのが金曜日の23時ころ。
高速道路の運転は、早く着くかもしれませんが、とにかく退屈なので一般道路で行くことに。
道中、バズ・ラーマン監督作品、ニコール・キッドマンとヒュー・ジャックマンが出演している映画『オーストラリア』を流しながら。
浮いて見えるコミカルな演出と、冗長と言い換えることもできるスペクタクルな感じが長い運転を中和させてくれました。
そして、(ナビとともに少し迷子になりながらも)着きました。
貝掛温泉。 奥湯沢。
昼(朝?)に入る露天風呂は素晴らしいものでした。
この貝掛温泉は、かの武田信玄公が隠し湯として利用していたとされ、眼病にとても効能がある湯であるという。
真上に昇ろうとする太陽に照らされながら熱い湯につかる。
じつは、広い露天風呂の湯は温度的にとてもヌルかったんですが、少し奥行ったところに小さな湯だまりがあり、遠慮勝ちな看板に「熱い」の文字がかかれてありました。
その湯に入ってみると「ほんとだ!」と声に出すほど熱い。ですが、その熱さが運転で疲れた身をほぐしてくれました。
熱くあってこその温泉。
周りに喧騒はなく、風が木々を揺らす音さえも静かに山にとけ込んでいく。
音のある静寂と心地よい空間をあとに村上市に向かうことにしました。
どうしても陽のあるうちに着きたかったので村上市までは高速道路を使って行ったんですが、やはり退屈です。景色が変わらない。ただただ惰性で運転している。
そんな運転をしているときにかけていたのが『マーヴィン・ゲイ・アンソロジー』
高速道路を運転するときは80年代のベタな音楽が気分に合います。
ヒューイ・ルイス&ザ・ニュースとか
38スペシャルとか
改めて知ったんですが、高速道路のほうがガソリンを消費するんですね。見る見るうちにメーターが減っていったので慌てて給油しました。
もしあんなところでガス欠にでもなっていたら・・・。
奥湯沢から出発し、渋滞もなく、およそ3時間ほどで村上市に着くことができました。
市内に入ってから海岸沿いの道路に向かうことに。
海沿いの道を運転して心躍るのは、それまで山あいばかりの景色だったところに真っ青で広大な海が一気に視界に飛び込んでくるときではないでしょうか。
そういった海岸的な瞬間にどれだけ出会うかで感性の豊かさが大きく左右されていくのかもしれません。
海ってやっぱりいいですよ。
そして、新潟県村上市の海の透明度に感動しました。
地球温暖化の影響があるのか、藻が多いものの海水そのものはご覧のとおりです。
もうすでにお気づきの方もおられるかも知れませんが、この奥湯沢経由、村上市への旅。まったくの単独行動でした。
一人でカラオケに行ったり、一人で焼肉に行ったり、普通は誰かと一緒に行くものでしょう、という固定観念がなくなりつつある昨今に行われた一人ニイガタ。
数年前、一人で富山県の海で泳いでいたとき、地元のおじさんに「一人で来たのか、溺れないように」と危ぶまれたことがあります。
なので今回は不審者には見えないよう(釣竿というアイテムを持っているだけで長時間防波堤にいても不審に思われないんです。知ってましたか?) 心がけました。
そんな心がけをよそに、地元の人だろう人から気さくに話しかけられることが多々あり、「いいところだな村上市」と印象バロメーターは上がりっぱなしでした。
日光浴とともに読もうと、持って行った本があったのですが、それがこの本。
『未亡人の一年』
ジョン・アーヴィング著、です。
単に読みかけだったのか、なぜこの本を持った行ったんでしょう?
村上市と未亡人、何の関連性もありません。
一人の人間が生まれてから死ぬまでの物語を圧倒的であり病的なまでに細かいディティールを織り交ぜて描く、現代文学の中でも稀有なストーリーテラーがジョン・アーヴィングです。
映画『ドア・イン・ザ・フロア』の原作本である小説です。
物語は四歳のルース・コールが物音で目を覚まし、母親のマリアン・コールの寝室に行くところから始まる。そしてそこでルースは母親と、父親の助手として働いていた十六歳のエディ・オヘアが寝ているところを目撃する。
四歳のルースは幼すぎて、エディや彼のペニスをはっきりと覚えていなかった。だが彼のほうはずっと覚えていた。三十六年後、彼が五十二でルースが四十になったとき、この不運な若者は、ルース・コールに恋することになる。しかしそのときでさえ、彼はかつてルースの母親と寝たことを後悔はしなかった。いや、これはエディの問題だった。ルースの話にもどろう。
という描写につながる。
本から目を離し、海を見ると
じつに見事な夕日がそこにはありました。
いったいなぜイカ墨で挿絵を描く絵本作家が出てくる小説を読んでいたのだろう。
目の前で刻一刻と変化していく夕日を眺めることに。
日が完全に落ちてしまうとそこはシャットダウンされたかのように夜になります。
村上市内を運転していて気づいたことはパトカーを一台も見かけなかったことです。
ただの一台も。それだけ治安が良いのでしょう。
だからあんなに多くの人が気さくに話しかけてくれたのか、と思いました。
そのあと、沖合いのテトラポットの向こう側で泳ぐイシダイの群れを(本当に海が透明でした)見たり、焼けすぎた肌がマグロの血合いの部分のような色になったり、近年まれに見る無愛想な釣具屋の女亭主に出会ったり、といった「デイヴィッド・カッパフィールド的なしょうもないあれこれ」(キャッチャー・イン・ザ・ライ)があったりもしたんですが、それは省略して。
帰路はすべて一般道路を使って帰ることにしました。
370km。 結果7時間ほどかかることに。
色んな音楽を聴きながら運転していたのですが、370kmという長い距離の中、いちばん心に響いたのはこの一曲でした。
ルシンダ・ウィリアムス(Lucinda Williams)というシンガーソングライター。
カントリーやブルーグラス、ブルース、ロックを混ぜこぜにした印象です。
TIME誌は彼女のことを「America's best songwriter」と評したという。
この曲、聴いていると、地平線に続く長い道のりが見えてきませんか?
ささくれていていても、酒に溺れていても、ぼろぼろになっていても、全米のライヴハウス(とも呼べないような小屋も含めて)を年中かけて回る光景が目に浮かぶ。
行く先々ではさまざまなことが巻き起こり、それらすべてを飲み込み続けた結果に出てくるような歌声が「本当に」長い時間運転している自分に重なる。
途中、あまりの空腹に耐えかねてどこかで食事をすることに。
何を食べようかと思っていた頭に浮かんだのは、旅先でしか出会わないであろう「食事処」でした。
それこそ小屋のような店構えで、看板にはジャンル無視の「ラーメン カツ丼」とあるような。
ありました。奇跡のようにイメージどおりの店が。
その店で(また嘘のようなメニュー)ラーメンとミニカツ丼を食べる。
そしてそこにはトラックの運転手がいたり、少々のことでは折れたり崩壊しないスタミナに満ちた家族がいる。
ルシンダ・ウィリアムスの世界に迷い込んだような。