2010年4月23日金曜日

『ぼくを葬る』




映画『ぼくを葬る』 (『LE TEMPS QUI RESTE』)
(2005)

監督,脚本,フランソワ・オゾン(Francois Ozon 1967.11.25- )

撮影,ジャンヌ・ラポワリー(Jeanne Lapoirie - )

出演,メルヴィル・プポー(Melvil Poupaud 1973.01.26- )

ジャンヌ・モロー(Jeanne Moreau 1928.01.23- )

ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(Valeria Bruni Tedeschi 1964.11.16- )







 フランソワ・オゾン監督の思い入れがつまった作品、だと見て思いました。

 パリに暮らし、ゲイである三十一歳の男性がある日突然倒れ、入院する。検査の結果、悪性の腫瘍があることが分かる。状態はかなり悪く、余命三ヶ月だと宣告されます。

 家族もあり、恋人もあり、仕事もあった。そんな彼(ロマン)はある日突然人生のターミナル(終末)に直面する。





 ターミナル・ケアを専門に研究したことで評価の高いエリザベス・キューブラ・ロス(Elisabeth Kübler-Ross 1926.07.08-2004.08.24)博士によると「死の段階」は五つに分かることができるという。

 第一段階は「否認と孤立」、第二段階は「怒り」、第三段階は「取り引き」、第四段階は「抑鬱」、第五段階は「受容」である。

-『死ぬ瞬間 死とその過程について』より





 主人公ロマンが劇中、死の過程を経験する上でこの五段階を経たとは思えなかった。彼はあまりにも素直に死を受け入れていたようにみえた。生きようとする、生にしがみつくことをせず、訪れた死を目の前にして素直に生を手放したようにみえた。
 なぜだろう。仕事に対する意欲はあったはずだった。家族と もそれなりにうまくやっているように見えた。恋人とは倦怠期に入っていたとはいえ、それはどこの誰もが通過することだ。



 生にしがみつかないからといって、現実離れしているフィクショナルな映画と簡単には言い切れない。劇中の現実から浮いた感覚を持つ主人公こそオゾン監督が理想とする死に直面したときの姿勢なのかもしれない。


 冷静にことを見つめて、それを受け入れる。
余命が三ヶ月なら自分にやれることをしようとする。別れる人々に自ら別れを告げる。会えなくなる人々 に会いに行く。優しい声をかけることができなかった人々に声をかけにいく。自分には残せないだろうと思っていたものを残す。そして、自分が一番好きな場所に行き、ひとりになり、死を迎え入れる。



 この人は次作を撮ることができるのだろうか、と思って調べたらもう撮っていた。短篇が一本、そしてエリザベス・テイラー原作の小説 『Angel』の映画化『エンジェル』(2007)。




 そして日本未公開の『Ricky』(2009)




 さらに『Le refuge』(2009)




 そして撮り終えたばかりの最新作『Potiche』(2010)




 フランス映画だからなのか、オゾン監督だからなのか。ハリウッドのように映画を一大プロジェクトに仕立て上げ、スタジオが(小国家の予算なみの巨費を背負って)大掛かりに動き、プロデューサーがNOを出したり出さなかったりするのを経て、いくつもの歯車が絡み合い、どるどる どると動く感じではない。
ささっ、ぱぱっ、と動いている(ただの想像で、実のところは何も知りませんが)。
それでいてこの仕上がりは才能あるフィルム・メーカーの一人であることは間違いないでしょう。