2011年12月24日土曜日

神田川 10000m

12月24日 

いつものジョギングコースを10500m走る。

タイムはだいたい50分でした。

ということは1kmを5分。 そんな早いペースで走ってたのかな。 ひょっとして1周(1500m)間違ってカウントしてしまってたのかもしれません。




12月24日


もちろん、前提として、僕の目が曇っていて、さらに歪んでいるからなのだろうけども、街を歩く男女二人の姿を見ると思わず笑ってしまう。


クリスマスというボールを手にした投手が、大げさなモーションで振りかぶって、そおっとストライクを置きにいっているように見える。


笑ってしまっていて「いや待てよ」と考える。

1年365日、すべての日において街中で歩く男女二人の姿を見ることができるはずだ。

なぜ、この日だけどこか可笑しげな光景に見えるのだろう。


答えは着飾り感だと思います。

肩に力が入っちゃって、背伸びもして、この日に挑んでいる、という様子が見て取れるからだろうと。



(実年齢はともかくとして精神的に)若い人に多く見られるようです。

自然体でいいのにね、と思える日は彼ら彼女らに来るのだろうか。

それとも、それらも含めて特別な日として楽しんでいるのだろうか。






僕には特別な日を特別視することを嫌う友人がいます。

彼いわく、誕生日だとかクリスマスだとか、決まった日、決まったタイミングで何かを祝うのはそれ以外の日をおろそかにしている、のだと。

平和と安定を好み、波風を嫌う女性にとっては面倒極まりないことかもしれませんが、すべての日が特別なんだよという彼の主張は「なるほど、そうか」と思える部分がないわけではない。


その友人のもうひとつの特徴として、彼が誰かのエピソードを話すとき、それらすべてがコテコテの関西弁になる、というのがある。

関東出身の後輩のエピソードであろうと、チャイニーズ系の女の子のエピソードであろうと、彼が再現するとコテコテの関西弁を喋っている体になる。


「いや、実際はそんな風には喋ってないよね。モノマネしてくれとまでは言わないけれど、せめて少し寄せる努力があってもいいんじゃない」と思うが、彼が育った大阪の土壌というのは彼自身の中に深く強く根付いているので、そこを否定すると彼を否定してしまうことになるのかなと思って言わないでいる。

そのほうが良いとは思うけれども、笑いを交えて言ってしまう。






という思いが交錯している街中。


本屋に立ち寄るとそこにはジョン・アーヴィングの新著がありました。















「oh my (god)」

冗談でもなんでもなく思わず声に出てしまいました。


ジョン・アーヴィングの新著。

出すんだ。

また読めるんだ。







生きてみるもんです。

2011年12月18日日曜日

神田川 7500m

夏の走りこみが足りなかったのか、最近なまくら身体になっているような気がします。


なので、近くの川沿いの道を7.5km走りました。


以前住んでいたところの近くには新中川という川があって、その川沿いの道を虎ならバターになるくらいグルグルと同じところを回っていました。

空が抜けるように広がり、季節によって違う水鳥の姿が見える素晴らしいジョギングコースでした。





今は歌にもなっている神田川。

普段は水量が極端に少ないのに、雨が降ると見るのが怖いほど本気の濁流と化します。

空は、広いとは言えず、水鳥はマガモの親子がいたりいなかったり。









日常的に走ることのない人には理解されないことですが、走るとき、寒さ暑さはあまり関係ありません。
どんなに寒くても2kmも走れば汗が出るほど身体は温まります。逆に、暑いときは流れる汗の心地よさを全身で感じるだけです。




村上春樹さんも言っておられますが、走るのは“シューズと道路さえあれば、いつだってどこだって簡単にできる”と。








まさにそのとおりで、思い立って、それを行動に移せばいつだってどこだって走ることができます。

そして楽しい。

素晴らしいことではないでしょうか。




その後ろのほうのページにスカッシュをしていて肉離れをしたエピソードがあります。

そして、元巨人軍監督(ふと思いましたがなぜ巨人というチームにだけ軍がつくのでしょうか?ヤクルト軍、ソフトバンクホークス軍とは言いませんよね。)長島茂雄氏は肉離れのことを「ミート・グッドバイ」と呼んだというエピソードにつながる。

その後の記述。


ほんとかなあ、いくらなんでもそこまで・・・・・・とは思うんだけど、ひょっとしたら本当かもしれない。たとえ本当ではないとしても、まあいいじゃないですか。僕らはみんな、何か生きるよすがになるような、明るい前向きの神話を必要としているのだから。



ジョーゼフ・キャンベルです。







思わず笑ってしまったけども、そうか、そうかもしれないな、と思わせる記述があるのが村上春樹さんのエッセイの特徴です。

古代ギリシャ人にとってホメーロスの叙事詩が重要であるのと同様に、僕にとって『シドニー!』は重要な意味合いを持つ中身がないようで余りある優れたエッセイのお手本のような著作です。










時代や国を超えて語り継がれる神話は人類の元型になっているのかもしれない。だからこそ、物語は人の心に浸透し、感情を揺さぶり、時にはその人格さえも変えてしまう。


たとえば原発事故、あれほどのことがあっても私達の心のどこかに「この危機を解決してくれる英雄がひょっとしたら現れるのかもしれない」と思う部分があるとすれば、それは神話に出てくる英雄像が元になっている。

そういった楽観的な考えは心を救ってくれるかもしれないが、地球に起こっている現実は救えない。


大気と海はおびただしく汚染され、そこに生きるすべての生物の体内には毒性の物質がたまり、それは食物連鎖で循環していく。



でも、まあ、アメリカ経済が深い沼の中心に沈み、欧米やアジアの諸各国を引きずり込んでいる世界経済。そこには避けることのできない大きな歪みがあり、軋轢があり、先行き不透明な強い不安感がある。

そんな現在にこそ『何か生きるよすがになるような、明るい前向きの神話が必要』なのかも。







と、まあそんなことを考えたりもしながら(何も考えなかったりもしながら)の今日のジョギングでした。