2010年7月14日水曜日

『アンダーグラウンド』のあとのノート


 
 
  

 はじめに

 これは僕が村上春樹の著作『アンダーグラウンド』を読みかえしたことをきっかけに書こうと思って書いた文章です。ここを訪れた方がこの文章をどう読もうと、あるいは読まなかろうと、それは個人の自由であります。

 ですが、タイトルにありますように、やはり『アンダーグラウンド』を読み終えてから読んでいただければと思います。中には本書からの引用もありますし、読んでみなくては分からないだろう感覚的なことにも触れてあります。


 『アンダーグラウンド』が刊行された約一年後に『約束された場所で underground 2』という視座を変えた続編が刊行されています。公平性を求める上で取られた自然な成り行きで刊行された著書なのですが、読者側の公正性を求めるならばこちらもお読みいただければと思います。





 そして、二〇〇〇年に刊行された『神の子どもたちはみな踊る』は村上春樹が、阪神淡路大震災、オウム真理教による地下鉄サリン事件、この二つのカタストロフを経たあとに書いた短篇小説集です。





 二つのカタストロフ後に行われた河合隼雄氏と村上春樹氏の対話について。
一九九七年、五月十七日に京都行われた対話が『約束された場所で underground 2』に収録されており、一九九五年、十一月同じく京都にて行われた対話の書籍化が『村上春樹、河合隼雄に会いにいく』です。その前年の一九九四年の五月五日にも公開で対談が行われており、その書籍化が『こころの声を聴く 河合隼雄対話集』です。


 




村上▼僕が物語を小説で書いてて思うのは、結局のところそれはシミュレーションなわけですね。疑似ゲームなんです。例えば自我と環境との間でいろいろ葛藤がありますね。ところがそれを書いても誰も納得できないんです。僕が例えば河合先生と喧嘩をする。で、頭に来る。これを誰か他人に説明しようとしても、僕の怒りというのはそのまま正確には伝わらない。何が伝わるかというと、なんか村上が怒っていたと、それしか伝わらない。僕がどれぐらい怒っていた かというのは伝わらないんですよ。
河合▼そのとおりです。
村上▼それをどう物語るかというと、エゴと環境じゃなくて、その両者の関係をそのまま意識の下部方向に引き下ろすんです。そして別の形でシミュレートするわけです。それを書くとよくわかるんですね。これが僕にとっての物語の意味であるというふうに思う。

―『こころの声を聴く 河合隼雄対話集』より抜粋







麻原の荒唐無稽な物語を放逐できるだけのまっとうな力を持つ物語を、サブカルチャーの領域であれ、メインカルチャーの領域であれ、私たちは果たして手にしているだろうか?
 これはかなり大きな命題だ。私は小説家であり、ご存知のように小説家とは「物語」を職業的に語る人種である。だからその命題は、私にとっては大きいという以上のものである。まさに頭の上にぶら下げられた鋭利な剣みたいなものだ。そのことについて私はこれからもずっと、真剣に切実に考え続けていか なくてはならないだろう。そして私自身の「宇宙との交信装置」を作っていかなくてはならないだろうと思っている。私自身の内なるジャンクと欠損性を、ひとつひとつ切々に突き詰めていかなくてはならないだろうと思っている。(こう書いてみてあらためて驚いているのだが、実のところそれこそが、小説家として、 長いあいだ私のやろうとしてきたことなのだ!)

―『アンダーグラウンド』より抜粋





 そういった思いや考えがあった上で書かれた六篇の短篇小説が『神の子どもたちはみな踊る』の中にある。

 こう書くと読むこと自体が大層難儀なことと思われるかもしれませんが、小説それ自体はとても面白く、読みやすいものです。







『アンダーグラウンド』のあとのノート


 僕は携帯電話を持っていない。ある時にずいぶんと考え、そして意識的に携帯電話を所有しないことを選んだ。

 携帯電話を持ち、それを使用すると使用しないでは決定的な何かが違ってくるのではないだろうかと僕は思う。おおまじめに。それは、電磁波が脳に影響を与えるとかそういったものではない。また、その何かが目に見えるような変化として顕れるとは限らない。


 携帯電話及び無線端末機器を日常的に用いてどこかに繋がるという行為を別の何かに置き換える――意識の下部方向に引き下ろす――と一体どういうことなのか。その答えを出そうとした。

 テレビを見るという行為は過去の人類史において火を-炎を見つめる行為に等しいのではないか、という話を聞いたことがある。
なるほど、と思った。テレビだけではなく、携帯電話の画面、パソコンのモニター、人はそれを見て、炎のゆらめきを見つめたときの恍とした感覚を得ているのだろうか。


 
 陽とともに目覚め、よく歩き、土に触れ、よく噛んで食べ、陽が落ちたあと火を見つめ、語らう、これらのことが日々行えば、よほどのことでもない限り、心と体の病にはならない、これは僕の持論です。
 言い換えれば、心と体の病は上記のことをしていればよくなる――少なくとも悪くはならない――はずである、ということです。学問上の根拠はどこにもないが、僕はこれを信じている。

 パソコンの子機、あるいは端末機器と呼んで過言ではない携帯電話を日常的に使用し続けたとしても、まったく何の影響もないままのだろうか。ほんの二十年前までは誰も携帯電話なんか持っていなかった。持っていなくても誰も不便と感じていなかった。仕事上の連絡が必要な人もそれはそれでないなりにやりくりしていた。ところが今現在、どこの誰を見ても携帯電話を持っている。日本に限らず、若人に限らず。携帯電話のパネルを見ている人を見ることが増えた。増えたなんてものではない。今世紀最大の激変とも呼べるものではないだろうか。

 これまでの人類史の中でこれほどまでに大人数の人々がこぞって所有し、使用し続けているものがあったのだろうか。

 その激変の理由は解明されているのか。

 普遍の存在理由というものが携帯電話にあるはずだ。それは一体何なのか。研究機関は設立されているという話は聞いたことがない。これほどの地球規模の激変であるにもかかわらず。
 以前の激変を辿れば、それはテレビだろう。その前は電話。産業革命、エネルギー革命、と呼ばれるものであり、それがどういったことだったのかは説明を聞けば理解できる。



 携帯電話で他の個人につながり、話をする。また、メールで文章テキスト及び画像や動画のやりとりをして意思の疎通を図ろうとする。このことで無意識の深層にある集合的無意識に繋がろうとしているのではないだろうか。

 深層意識にある集合的無意識に繋がりたいという欲求を誰もが持っていて、その欲求を満たす行動の顕れとして携帯電話を用いているのではないか。

 つまり、現在や過去に関わらず、人々は火-炎のゆらめきを見つめながら語らうことによって集合的無意識に繋がろうとしている。そう言えるのではないか。
 だが、いくら携帯電話を用いても、ほんとうの集合的無意識には繋がることはできない。人は、修行によって無意識そのものの状態になることは可能でも――言葉で簡単に書けるが、その修行はとても難しいものだ――、無意識の世界に意識を保ったまま行くことは不可能だからだ。


 だが、欲求は募っていくばかりだ。そして煮詰まった鍋に水を足すように人々は携帯電話を用いる。便利と惰性という心理的バイパスを抜けて人々は 携帯電話を用いる。自分がどういった行動原理に突き動かされているのか理解しないまま、その場を紛らす行為を取り続ける。そうすることによって、人の心のあるところにあるべきはずのものが少しずつ少しずつ減っていっているのではないだろうか。

 それは、想像力、または忍耐力、またはモラル、または集中力、または表現力、と呼ばれているものであるかもしれないし、ひょっとしたら心そのものかもしれない。

 街中を一人で歩いているのに、小さくない声で独り言を言っている人がいる。都市と呼ぶことのできる場所に行ったことのある人なら一度は見かけたことがあるかもしれない。その独り言はただの独り言ではないし、つぶやきといったものでもない。明らかに誰かに向かって話しているような独り言。そして、その独り言を言っている人には、「なぜ独り言を言っているのですか?」と聞けない雰囲気がある。

 寂しいから、くせの一つ、ストレスから、声を出したいから、歳を重ねたから、独り言にはいろいろな理由がある。
 僕の想像だが、その独り言を言っている人は自分の中の別人格――とはいかないまでもそれに近いものに向かって声を出して話しているのではないだろうか。いわば内的自我と話をしているのではないだろうか。そして、その内的自我のさらに深いところ、深層には無意識があり、さらに奥には集合的無意識が存在している。

 その独り言を言っている人は、街中で行き交う人々の自我の強さにあてられ、本来自我が備え持つ外に向かって押し返す力をなくし、より内へ内へと 矢印が向かうことによって自己を成り立たせているのではないだろうか。そうした人が話す言葉や取る行動は集合的無意識に向かっているのではないだろうか。





 『アンダーグラウンド』に戻る。
この本は、一九九五年に起きた「地下鉄サリン事件」の被害者の方々に村上春樹がインタビューし、それをまとめたものである。被害者の方々の反応として、目の前で起きていることと自分の感情をうまく繋げられていない人と、怒り心頭で事件に関わった加害者たちに厳罰を処することを強く望んでいる人がいる。このことについて『約束された場所で underground 2』に以下の記述がある。


村上 取材をしていて感じたのは、ある年齢より高くなると、「絶対にオウムは許せん!」という人が多くなるということでした。そういう人たちはオウムのことを「あいつらは絶対的な悪だ」と捉えています。でも若い人たちになると、そうではない。二十代から三十代にかけては、「あの人たちの気持ちもわからないではない」という人がけっこう多かったです。もちろん行為そのものに対しては怒っているんですが、動機についてはある程度同情的だったです。
河合 善悪の定義というのはとてもむずかしいことですから、小さいときから生き方によってたたき込まれているものが強いんです。これが善だ、というふうに身体がそうなってしまっている。地下鉄職員の方の話を読んでいると、それがものすごく見事ですね。ある意味では感心もしてしまいますし。ところが 若い人たちはそういうものを持っていません。判断が柔軟であると言えば、柔軟なわけですが。
村上 でも現代の社会において、いったい何が善で何が悪かという基準そのものがかなり揺らいでいるということは言えますよね。

―『約束された場所で underground 2』より抜粋


 すべてのインタビューの内容が公平性を保たれたスタンスで行われ、その総体として事件を深く理解しようという試みであったように思う。人によっては事件以前のその人の仕事のこと家庭のことが見事な形で浮き彫りになっていてとても興味深く読み進んだ。

 特に、というわけではないが、豊田利明さんと、著者である村上春樹さんとのやりとり、そして、元騎手であるマイケル・ケネディーさんの話は本文 にもあるとおり、「職業倫理」を兼ね備えた良き市民の話であり興味深く読んだ。


〈豊田利明さん〉

 (著者による記述)実を言うと、この人と話しているあいだ私の頭には「職業倫理」という言葉がずっと浮かんでいた。これは「市民倫理」と言い換 えても良いかもしれない。三四年間現場でしっかりと働いてきて、そこから得たethics(道義的価値観)のようなものが、ひとつの強い誇りとなってこの人を支えているかのように見受けられる。見るからに良き職業人であり、良き市民である。

(中略)

(豊田さん)私はオウムが憎いとも思わないようにしているんです。それはもう当局の人に任せちゃっています。私の場合、憎いとかそういう次元は とっくに通り過ぎてしまっているんです。彼らを憎んだところで、そんなもの何の役にも立ちはしません。オウムの報道もまず見ません。そんなもの見たってしかたないんです。<それくらい見なくてもわかります (強調傍点あり)>。そこにある状況を見ても、何も解決しません。裁判や刑にも興味はありません。それは裁判官が決めることです。

 (著者)-見なくてもわかるというのは、具体的にどういうことなんですか?

 (豊田さん)オウムみたいな人間たちが出てこざるを得なかった社会風土というものを、私は既に知っていたんです。日々の勤務でお客様と接しているうちに、それくらいは自然にわかります。それはモラルの問題です。駅にいると、人間の負の面、マイナスの面がほんとうに良く見えるんです。たとえば私た ちがちりとりとほうきを持って駅の掃除をしていると、今掃き終えたところにひょいとタバコやごみを捨てる人がいるんです。自分に与えられた責任を果たすことより、他人の悪いところを見て自己主張する人が多すぎます。

 (著者)-モラルは年を追うごとに低下しているのですか?

 (豊田さん)あなたはどう思いますか?

 (著者)-私(村上)にはよくわかりません。


〈マイケル・ケネディーさん〉

 (著者)-お話をうかがっていると、マイケルさんは騎手としての才能を持っていたようですが、騎手としてもっとも重要な才能というのはどういうものだと思いますか?

 (ケネディーさん)馬とコミュニケーションを持てる能力だね。それが騎手としていちばん大事な才能だ。でもそれは多くの場合、生まれつきの才能だ。言葉で「こうやりなさい」と教えるのはものすごくむずかしい。
 僕は日本の若い騎手たちに、「もっともっと馬に話しかけなさい」って口を酸っぱくして言っているんだが、なかなか実際にそうする人はいないみたいだね。とくに日本の騎手たちは、みんな傾向としてマッチョなんだ。どっちかというと彼らは、力でもって何かを馬に命令しようとする場合が多いようだね。 僕はここの生徒たちのことがとても好きだし、優れた生徒たちだと思うけれど、そういう全体的な傾向はたしかにあると言わなくてはならないね。
 もちろん馬に力ずくで何かをやらせることはできる。馬は自分が嫌な目に遭わないように、そのために、全力を出すことはあるからね。たとえば火を 避けて逃げるときのようにね。彼らは頑張るわけだ。
 でも僕は思うんだが、それよりはむしろ馬を説得して、理を説いた方が、ずっと良い結果をもたらすことが多い。馬と仲間になって、友達になって、共通の目的のために力をあわせて邁進する。馬と二人でチームを組むんだ。なんといってもそれがいちばんなんだよ。
 もちろん中には意地の悪い、根性のねじけた馬もいるよ。でもね、そういう馬は、多くの場合、これまでひどい目にあってきて(たとえば調教師にいじめられたりして)、結果的にそうなったんだ。最初からねじけた馬なんて、そんなにいるものじゃあない。だから辛抱強く時間をかければ、うまく友達になれ ることが多い。
 いいかい、どんなレースにおいても、どんな馬にとっても、そこにはブレーキング・ポイントというのがひとつあるんだ。そこでは馬は「もう駄目だ」という感じになってしまう。メンタル・クライシスみたいなものだね。それは騎手にもわかる。そのときに馬は「わがふっ」とか「あああうふ」とかいう声 を上げる(*マイケルさんはここのところを馬語で喋ったので、それに近い音声を表記した)。僕らはその声を、レースの最中に、まわりの喚声の中で、はっきりと聞き取ることができる。そのとき騎手は馬を励まさなくちゃいけないんだ。僕は馬に話しかける。そうだよ、レースの真っ最中、最後のストレッチにかかっているときに、大きな声を出して心から馬に話しかけるんだ。僕の声はちゃんと馬に届く。もちろんだよ、絶対に届く。
 これは鞭よりもきく。鞭を与えられれば、馬は本能的に自動的にゴールまで突っ走る。でも僕は馬に話しかける。「さあ、行こうせ。よし。そうだ! 一緒に行こう!」ってね。そのような励ましが、馬にとって絶対に必要なポイントが、レースの中に必ずひとつあるんだ。それを摑むことが大事だ。僕にはそれができる。
 僕には若い頃からそれができた。いや、というよりか、若いからこそそういうことが無意識的にできたんだろうね。若い人にはある種の力がある。馬に何かを語りかけると、向こうがそれに答えてくれる、そういう力を感じるんだ。ドライビング・パワーだ。
―『アンダーグラウンド』より抜粋