著者,村上春樹
出版社,新潮社
村上春樹『1Q84』 新潮社公式サイト
深い読書体験でした。読んでいる間、読んだ後、何かを考えるとき『1Q84』の文体で考えていることに気がつきます。正確に言えば『1Q84』の文体に近い文体です。この小説の中にある文体に自分の文体が根こそぎ持っていかれます。物語と文体に自分の芯のようなものが握られっぱなしになります。抵抗しようとしても自由がきかなくなっている。
どうしてこうなるのだろうと考える。その思索は一つの答えに辿り着く。小説『1Q84』を読んでいる我々は実際に1Q84年の世界に連れて行かれてしまったのではないだろうか。青豆がいて、天吾がいる世界に。好むと好まざるに関わらず、月が二つある世界に我々はいる。
どこかの時点で私の知っている世界は消滅し、あるいは退場し、別の世界がそれにとって代わったのだ。レールのポイントが切り替わるみたいに。つまり、今ここにある私の意識はもとあった世界に属しているが、世界そのものは既に別のものにかわってしまっている。
―Book1 p195
今いる世界がどこであれ、そこは私達が元いた場所ではない。
いったいここはどこなのか、どうすればここから立ち去り戻ることができるのか、私達は考える。
ここは村上春樹がつくりだした小説世界だ。小説家の彼が才能と努力のすべてを投げ出し、時間をかけてつくり上げた世界だ。私達はその小説を読み、知らず知らずのうちにその世界に取り込まれた。不快ではないが、快でもない。ただ、ここは私達がいる場所ではないと大きな声が言っている。その大きな声は私達の心に強く呼応する。ここに長くいることはできない。どんな方法を使ってでもここから立ち去らなくてはいけない。
私達の目は空に浮かぶ二つの月を見ている。血液の流れは速くなり、心臓の弁が震える。時折、雲が月たちを覆い隠す。私達が月たちから何も読み取れないように。そこに長くいてはいけない。大きな声はそう言っている。私達はその大きな声を信頼する。
小説家村上春樹はこれほどまでに強い力を持つ小説世界をどのようにしてつくりあげることができたのだろう。
彼は毎朝4時ころに起き、顔を洗い、歯をみがき、そしてコーヒーを淹れるため大きなヤカンに水を入れ火にかける。湯が沸くのを待つ間にiMacの電源を入れる。彼のiMacはいつもの時間に規則正しく起き上がる。そして儀式的に密やかにコーヒー豆に沸いた湯を注ぐ。声にはしないが呪文も唱える。
淹れたコーヒーをマグカップに移しかえ、机に向かう。そこから4時間か5時間かけ、決まった枚数の原稿を書く。誰も起きていない静かな時間帯、暗い森に彼は出かける。一匹の背を向けたフクロウが木にとまっている。フクロウは首だけを動かし森に侵入してくる彼を見つめる。
村上春樹は森の奥へと歩いていく。そのようにして、彼は物語の世界にとても深く潜り込む。
原稿を書く時間が終わると軽く食事をする。トーストのときもあればビスケットのようなもので済ませるときもある。そしてジョギングに出かけ 10km走る。走り終え、帰宅し、驚くほどの速さでシャワーを浴び、洗面器がてんこもりになるくらいの量の新鮮な野菜を食べる。
午後はのんびりと過ごすことが多い。週に何度か水泳をし、読書をしたり、映画を観たり、翻訳をしたりする。日本にいるときは夕方近くになると散歩に出かけ鰻屋に入り、ビールを飲み、うなぎを食べる。
夜は21時には就寝する。そしてまた翌朝4時ころに起きる。彼のiMacも目を覚ます。そうした生活のサイクルを自らのあらゆるところに沁み込ませ馴染ませる。
徹底した反復運動に基づいた日常の積み重ね。そうすることで通常入ることのできない物語の深度に彼は到達する。深い森の奥。暗い井戸の底。彼はそこで静かに呼吸し、さらに深いところに潜っていく。音がなく光も届かない世界。その世界で何が行われているかを目にする。
また、彼は日常的に英語の小説を日本語に翻訳している。異なるシステムで成り立っている言語を一旦解体し、自分を通して日本語に再構成する。彼にとって翻訳は苦を伴うものではない。むしろ楽しんで取り組める趣味のようなものだ。それでも手が止まるときがある。物語の核に触れたときだ。描写の言葉一つ、一行の文章の差し替えで、人物が立ち上がることもある。彼は経験を通してそのことを知っていた。そういうとき、彼はテキストにある言葉を自分の中に潜り込ませ、再び浮かび上がってくるのを辛抱強く待つ。その作業を通してアクチュアルでタフな文体を彼は身につける。
『1Q84』の物語は三人称で語られるがそれは絶対的な俯瞰に位置する神の視座ではない。それは青豆のものでもないし天吾のものでもなく、もちろん牛河のものでもない。著者村上春樹による第三の視座。客観的ではあるがある意味では個人的な視座。一人の生きた人間が見た思いのこもった視座。そこから物語は一つでも多く枝を伸ばし葉を広げようとする樹木のように多義にわたって我々に展開をみせてくれる。
1984年の4月、ハイエンドなオーディオシステムを搭載したタクシー(トヨタのロイヤル・クラウンサスーン)の中で29歳の青豆雅美はヤナーチェックの『シンフォニエッタ』を聴く。そして渋滞で足止めされた多くの人々が見守る中、首都高速道路三号線の緊急避難用階段を降りる。すべてはそこから始まる。
川奈天吾は、文芸誌の編集者である小松祐二に一つの物語をリライトしてみないかと持ちかけられる。その物語は十七歳の深田絵里子、ふかえりが書いた『空気さなぎ』だった。その物語の世界では山羊の死体を通してリトル・ピープルが現れ、空気さなぎの作り方を少女に教えた。そして空には二つの月があった。
小さな月と、大きな月。それが並んで空に浮かんでいる。大きな方がいつもの見慣れた月だ。満月に近く、黄色い。しかしその隣りにもうひとつ、別の月があった。見慣れないかたちの月だ。いくぶんいびつで、色もうっすら苔が生えたみたいに緑がかっている。
―Book1 p351
青豆と天吾は私達の前に交互に現われる。
青豆は広尾にあるスポーツ・クラブにインストラクターとして勤めている。そのクラブの護身術のクラスを通じて「柳屋敷」の女主人緒方静恵とその警護を担当する田丸健一と交流を持つようになった。そして、青豆は緒方に大塚環の話をした。
青豆と大塚は学生時代から親友以上に深く結びついた関係であった。大塚は二年間の結婚生活の後、自宅で首を吊って自殺した。原因は夫による執拗で陰惨な暴力だった。青豆は大塚の夫に激しい怒りを感じた。そして時間をかけ周到に計画を練り、躊躇なく冷静に的確に男の頭上に王国を到来させた。
緒方は自分の娘も同じような経緯で失ったこと、自分がその男に対しどのような制裁を加えたかを青豆に語る。「柳屋敷」の女主人は男から暴力を受けた女を引き取り、青豆は女の敵なる男を別の世界へと移していく。
天吾はふかえりの保護者である戎野隆之から、1960年代、理想を求めた学生たちが自給自足のコミューン『さきがけ』を立ち上げたこと、その指導者こそがふかえりの父親である深田保であったこと、それが後に宗教団体となったことを聞かされる。
そして予備校で数学を教えながら『空気さなぎ』をリライトし、十歳年上の射精のタイミングに対して極めて厳格な人妻である安田恭子と性交する。
青豆と天吾は小学三年生と四年生の二年間、同じ学校の同じクラスになっていた。ある日の放課後、青豆と天吾は教室の中で二人きりになった。そこで二人は一度だけ手を握った。青豆は天吾の手を握り、力をこめた。そして二人は目を合わせ、瞳の奥にある透明な深みを感じとった。
それは成長した二人の心にも強く残りつづけた。青豆の心は天吾と奇跡的に再会することを求め、天吾の心には少女であった青豆の手の感触と温もりが残っていた。
おそらく、1984年であれば二人に奇跡は起きなかっただろう。ものごとはそんなに都合よく運ばない。人が何かを失ったとき、心には確実に穴が開く。そこに痛みを感じ、悲しみは肉にくいこみ、やがて訪れる空虚に身を覆われる。欠けた心は決して元には戻らない。それに対し、成すすべはなく、処方箋もない。長い時間をかけて人はそのことを思い知る。そして欠けた心のまま生きていくことを強いられる。慣れることはなく、欠けた部分を見るたび悲しみ、そこに触れるたびに痛みを感じる。
だが、そこは1Q84年だった。空に月が二つあるくらいだ。何が起きても不思議はない世界だった。小さなものが性行為抜きに受胎され光を帯びる世界であり、意識の底で息子が父親と和解する世界だった。その世界で青豆と天吾は出会い、猫の町を離れる。世界の入り口であり出口であるその場所に向かう。二人が信じるのと同じくらいに我々も信じる。
ここは見世物の世界
何から何までつくりもの
でも私を信じてくれたなら
すべてが本物になる
私達はページをめくり、本を閉じる。私達には夜のベランダですべきことがある。でも、その前に身体を温める必要がある。手鍋に牛乳を沸かし、ココアの粉を溶かす。普段、ココアを飲む習慣がなくてもここではココアをつくる。それをマグカップに注ぐ。そしてそれを手に夜のベランダに出る。
青豆と天吾のことを思い、青豆の中に宿る小さなものを思い、意識の世界でドアを叩き集金していた天吾の父親のことを思い、「柳屋敷」の女主人と躊躇のないプロであるタマルのことを思う。そして知覚するものであったふかえりのこと、結果的に物語の車輪となり青豆と天吾を元の世界へと運んでいった牛河のこと、真四角の真っ白な部屋に懲りた小松のこと、「さきがけ」の坊主頭と無口なポニーテールのこと、苦痛の世界から無痛の世界に移されたリーダーのこと、はやしたてるリトル・ピープルのこと、多くの知識を持った戎野のこと、暴力の下敷きにされ自ら生命を絶った大塚環のこと、公務員らしからぬ生き方をした中野あゆみのこと、一度死んだことのある安達クミのこと、夜の深い森にいるフクロウのことを思い、ベランダから見える地上を見る。
そこには児童公園はなく、すべり台もない。もちろん空を見上げる天吾もいない。だが、私達は温かいココアを手にして夜の冷えた空気を感じることができる。ここは「1Q84年」でもなければ「1984年」でもない。
そして空を見上げる。そこには月が一つあるだけだ。常に地球とバランスを保ち、浮いている月だ。一日が終わり闇が幕を下ろしたあと、私達の足下を照らす月だ。私達はその明かりを頼りに新たな森に出かける。