2010年4月30日金曜日

『ゾディアック』


 

 
『ゾディアック』 (『ZODIAC』)
(2006)

監督,デヴィッド・フィンチャー(David Fincher 1962.08.28- )

原作,ロバート・グレイスミス(Robert Graysmith 1942.09.17- )
『ゾディアック』(ヴィレッジブックス)

脚本,ジェームズ・ヴァンダービルト(James Vanderbilt 1976 - )

撮影,ハリス・サヴィデス(Harris Savides 1957.09.28- )

出演,ジェイク・ギレンホール(Jake Gyllenhaal 1980.12.19- )

ロバート・ダウニー・Jr(Robert Downey Jr. 1965.04.04- )

クロエ・セヴィニー(Chloë Sevigny 1974.11.18- )

マーク・ラファロ(Mark Ruffalo 1967.11.22- )

アンソニー・エドワーズ(Anthony Edwards 1962.07.19- )

ダーモット・マローニー(Dermot Mulroney 1963.10.31- )

ブライアン・コックス(Brian Cox 1946.06.01- )

ジョン・キャロル・リンチ(John Carroll Lynch 1963.08.01- )



ZODIAC - ゾディアック -










 MTVとコマーシャル映像界で活躍し、『エイリアン3』(1992)で劇場映画監督デビューを果たしたデヴィッド・フィンチャー監督の六作目にあたる『ゾディアック』。


 どのシーンを一枚の写真として切り取っても成立するのではないかと思われる映像(構図、配色)の美しさと、本筋であるストーリー展開とは別に寓意の込められた演出や描写がデヴィッド・フィンチャー監督作品の大きな特徴である。



 優れた配置術による構図、緻密に練られた配色、映像の美しさでいえばこの『ゾディアック』はトップクラスに挙げられるのではないだろうか。





 







  代表作の一つである『ファイト・クラブ』(1999)なんて見るたびに新しいメタファーを見つけることができる実に見事な映画だと思う。





 さあ、この『ゾディアック』。

まず、“ゾディアック”とは、1970年前後にわたって、アメリカで実際に起きた未解決の殺人事件の犯人が自称した呼び名である。

ゾディアック事件 - Wikipedia


  この手の映画は基となる実際の事件のことを踏まえたほうがより深く楽しめる。それはどういった意味なのかというと、本筋の物語、主要な人物、事件の時代背景、をより多く理解していたほうがデヴィッド・フィンチャー監督が込めた本筋とは違った場所で流れている寓意が―本筋の理解に追い回されることなく見ることができ―より多く汲み取れるからである。
 
 実際に起きた連続殺人事件を描く映画に込めた寓意とは本当に存在するのか、またするとすればそれはどういうものなのか。それに対する答えはもちろん本編にある。





 デヴィッド・フィンチャー監督自身はDVD内のインタビューでこう語っている。


“事件をいい加減に描くつもりはない

実際の殺人事件だから関心が集まる

不幸にもドラマチックな事件だが、テーマは大量殺人犯への賛歌じゃない

犯人を掘り下げる気はない

興味の対象は別にある

ある意味で取り残された関係者が、満足できないままどう生き抜いたかだ”




 
 ふとしたことをきっかけに事件に深く関わっていくこととなるパズルが好きな漫画家ロバート・グレイスミス(ジェイク・ギレンホール)。押しに押すタイプではないが、たとえそれが硬く大きな岩であったとしても確実に一歩でも前に進もうとするタイプの刑事デイブ・トースキー(マーク・ラファロ)。難はあるが優れた記事を書く記者、ポール・エイブリー(ロバート・ダウニー・Jr)。



 解けないパズルに夢中になり、執着する漫画家。事件解決を求める強い圧迫感に反した決定打の不足にいらだつ刑事。自己を過大評価し勇み足を進めていく記者。


 自分こそが事件を解決する者だと信じ家庭を省みずスクラップ記事をため込み、事件そのものにとり憑かれる漫画家。
 家族を選び解決しない事件を降りていく相棒、未解決のまま流れる年月に自身の角が疲弊し磨耗するのを受け入れざるを得ない刑事。
 解決しない事件と同じように世間から忘れ去られ、酒と薬に溺れて大手新聞社を追われたかつては有能だった記者。



 未解決の事件を優先しライフ・ワークとしてしまった(かつて漫画家だった)一人の男の執念は真相を覆う深い霧を抜け、犯人が出した最後の暗号を解く。それはメディアに取り上げられ、グレイスミスはテレビに自身の顔を映す。しかし彼の妻は家庭の安全が失われたと感じ、子どもたちを連れ彼から去って行く。


 誰にも解けないパズルを解いたグレイスミスは一人の容疑者に辿り着き、(事件の真相かもしれない)それをトースキー刑事に語る。
 未解決の事件に見切りをつけたかのように思えた刑事だったが、事件の詳細を誰よりも詳しく覚えていた。そして、すべては情況証拠に過ぎず(刑事である自分には)どうすることもできないと語る。グレイスミスは自分がつかんだゾディアックに関する事件のすべてを本に書くことを決意する。

 そして、本を書き上げる男には確認しなければいけないことが一つあった。それは自分が辿り着いた容疑者をこの目で見ることだった。
 もし、男が真犯人ならば、自身の暗号を解きテレビに映った自分を見たはずだ。そして自分の顔を見たとき男は何らかの反応を見せるに違いない。

 かつて漫画家だったグレイスミスは一軒の店に入り、一人の男の前に立つ。そして男の目をじっと見る。









 出演していた人物は皆が皆、徹底して抑えられた演技をしていた。ひょっとすればそれは演出されたものかもしれない。それはまるでホテルのドアの下にそっと差し入れるメッセージ・カードのような演技だった。そこに気づいて初めて読み取ることのできる演技。



 それらあらゆる事の過程から顛末までが全体を覆う暗色の中、不自然に存在するパート・カラーのような鮮やかな色の車や電話機と共に映される。
















2010年4月26日月曜日

『真実の行方』





映画『真実の行方』 (『PRIMAL FEAR』)
(1996)

監督,グレゴリー・ホブリット(Gregory Hoblit 1944.11.27- )

原作,ウィリアム ディール(William Diehl - )
『真実の行方』(ベネッセコーポレーション)

脚本,アン・ビダーマン(Ann Biderman 1951.08.15- )

撮影,マイケル・チャップマン(Michael Chapman 1935.11.21- )

出演,リチャード・ギア(Richard Gere 1949.08.31- )

ローラ・リニー(Laura Linney 1964.02.05- )

エドワード・ノートン(Edward Norton 1969.08.18- )

ジョン・マホーニー(John Mahoney 1940.06.20- )

アルフレ・ウッダード(Alfre Woodard 1952.11.08- )

フランシス・マクドーマンド(Frances McDormand 1957.06.23- )







 エドワード・ノートンが出演していると意識した初めての映画は、ウディ・アレンの『世界中がアイ・ラヴ・ユー』(1996) このすごい出演者たち!



か、『ラウンダーズ』(1998) すばらしい秀作です。


でした。

 
 この『真実の行方』に「予想できない展開」があるということは知っていました。
そうか。こういうことだったんですね。




 なんと、この映画がエドワード・ノートンのデビュー作だという。

IMDb > Primal Fear (1996) のトリビアによると、アーロン・スタンプラー役を巡って2100人にも及ぶ大規模なオーディションが行われたという(マット・デイモンもその中の一人だった)。




 
 1996年。映画を見る人の心もそれ相応に大らかだったのだろうか。映画を見ていて、いくつかの疑問が。 

リチャード・ギア演じる敏腕弁護士マーティンが現われることはアーロンには予想できなかったはずです。国選弁護人がついていたらどうしていたんだろう。

ビデオテープが都合よく見つかりすぎなんじゃないか。

自分で決めた設定上「ことの核心」をマーティンに振らせることはできなかったアーロン。最後の展開をあそこに持っていくことまでは操れなかったはずです。ああならなかったらどうしていたんだろう。





 

 それにしてもエドワード・ノートンの出演作はすばらしい映画が多い。
日本未公開の『Leaves of Grass』(2009)では双子の兄弟を一人二役で演じ、



最新作『Stone』(2010)では『スコア』(2001)以来のロバート・デ・ニーロと最共演をしている。





 監督、製作、出演作品としても『僕たちのアナ・バナナ』(2000)があり、


これ、もっと評価されてもいい映画だと思います。

 監督最新作としても『Motherless Brooklyn』(2010)が控えています。











2010年4月25日日曜日

『珈琲時光』





映画『珈琲時光』 (『Café Lumière』)
(2003)

監督,脚本,ホウ・シャオシェン(Hou Hsiao-Hsing 侯孝賢 1947.04.08- )

撮影,リー・ピンビン(Lee Ping-bin 李屏賓 1954 - )

出演,一青窈(1976.09.20- )

浅野忠信(1973.11.27- )

余貴美子(1956.05.12- )

小林稔侍(1943.02.07- )





 台湾の映画監督 侯孝賢が小津安二郎の生誕100年を記念して制作した映画。


 フリーライターの井上陽子(一青窈)は台湾出身の作曲家である江文也を研究、取材している。その取材の過程で神田神保町で古書店を営む鉄道オタクの竹内肇(浅野忠信)と親しくなった。

 ある日、実家に帰省した陽子は自分が妊娠していることを母(余貴美子)に言う。さらに、産むつもりではあるが結婚はしない、心配も要らない、とも。

 外見には妊娠していることを意にも介さない様子で取材をし、(自分に好意を寄せてくれる)肇と交流し、東京で生活する陽子。
心配した両親(父:小林稔侍)は東京に住む陽子を訪ねて来る。



 かつて侯孝賢が演出したCMに井上陽水が出演したことが縁で主題歌作曲のオファーとなり、主人公の名前が井上陽子となったとのこと。
 井上陽水。井上陽子。 なかなか大胆な名前のつけかたです。



他にも、侯孝賢が演出したCMがこちらです。









 劇中、何度かつわりで気分が悪くなるが、妊娠、出産、育児のことはあまりおおごとと思っていないように見える陽子の日常。お腹の子の父親は台湾に住み工場を管理している。極度のマザコンで母親とうまくやれそうにないこと、工場を手伝わされそうなことを結婚しない理由としている。頻繁に肇と連絡をとって頼りにしている様子から今後二人の関係性が発展していきそうな予感はある。

 小津がどうこうという目線で見るから疑問に思ってしまったのか。小津なら違う描き方をしていたように思えました。




 エンディング。御茶ノ水の聖橋あたりでしょうか。JR総武線とJR中央線が行き交い、さらに地下鉄丸の内線が地下(地上)に出入りする三重の立体交差の映像が見られる。鉄道マニアではありませんが、なかなか見ごたえのある交差です。



 侯孝賢監督が日本に来たとき必ず宿泊するといわれる大久保にある小さなシティホテル。その客室からはJR中央線の電車が見えるそうです。






2010年4月24日土曜日

Brad Mehldau  "HIGHWAY RIDER"




 ブラッド・メルドー(Brad Mehldau)の新譜が出てました。

『HIGHWAY RIDER』
(2010.3.16)



2002年発表の名作「ラーゴ」から誰もが待ち望んだジョン・ブライオン・プロデュースによる新作登場!全曲メルドーのペンによる2枚組アルバ ム。室内管弦楽団も加わったブラッド・メルドー・トリオの演奏。さらに若手NO.1、サックス奏者:ジョシュア・レッドマンが参加。ジャズの枠にとらわれ ない、どこまでもうつくしいサウンドは必聴!
―Amazon.co.jp: ハイウェイ・ライダー: ブラッド・メルドー: 音楽 より抜粋


 『Largo』と同じプロデューサー!










その『HIGHWAY RIDER』 一曲目の『John Boy』



感動。











『ピギー・スニードを救う話』




『ピギー・スニードを救う話』

著者,ジョン・アーヴィング

訳者,小川高義

出版社,新潮社









 長篇小説で印象深いジョン・アーヴィングが書いた、七篇の短篇小説と一篇のエッセイからなる短篇小説集。






―短編小説についてはどう?あなたは殆んど短編を書いてないけれど、短編という形式があまりしっくりこないのかな?

アーヴィング
 そのとおりだよ。僕は正直言って二度と短編を書きたいとは思わないね。僕はこれまでに半ダースくらいしか短編を書いていない。そのうち良いもの はふたつくらいだね。いちばん良いのは『ガープ』の中に入っているやつだ。僕は長編(ノヴェル)を書きたいね。

―長いノヴェル?

アーヴィング
 幅の広い小説だよ。僕は幅を広くしたいんだ。まあ長くはなるだろうけど、『ガープ』ほど長くはしたくないな。少なくともあと一、二冊について言 えばね。でも僕としては人の人生の全てを小説の中で語りたい。どんな風に生まれて、どんな風に成長して、どんな風に死んだか、ということだね。そうするに は幅広さが必要だし、またたぶんある程度長くもなっちゃうよ。

―ノンフィクションとか、エッセイみたいなものとか、評論なんかは?

アーヴィング
 いや、ごめんだな。小説しかやらない。他の作家に対するインタヴュ-ならやるかもしれない-今あなたがやっているようなさ。これはなかなか楽し いよ。でも僕は小説家だからね、僕の今の望みは次の小説を書くことだ。そしてそれが終ると次の小説、また次の小説。僕に時が残されている限りね。

―『インタヴュー 面白い小説とは何か』『ジョン・アーヴィングの世界』 より抜粋
訳者,村上春樹
聞き手,トマス・ウィリアムズ




 この受け答えからこれらの短篇小説が相当に稀有な存在であることが容易に想像できます。






 『ピギー・スニードを救う話』と『インテリア空間』、『ひとの夢』、『ペンション・グリルパルツァー』は楽しい読書だった。


 『ペンション・グリルパルツァー』ってどこかで読んだことがあったと思いながら読み終え、訳者あとがきを読んで分かりましたが、『ガープの世界』で主人公ガープが書いたとされる小説がこれ―正確にはこのままではないけど―でした。



 



 それができなかった私は、いまにして考える。作家の仕事は、ピギー・スニードに火をつけて、それから救おうとすることだ。何度も何度も。いつまでも。

-『ピギー・スニードを救う話』 より抜粋


2010年4月23日金曜日

『ぼくを葬る』




映画『ぼくを葬る』 (『LE TEMPS QUI RESTE』)
(2005)

監督,脚本,フランソワ・オゾン(Francois Ozon 1967.11.25- )

撮影,ジャンヌ・ラポワリー(Jeanne Lapoirie - )

出演,メルヴィル・プポー(Melvil Poupaud 1973.01.26- )

ジャンヌ・モロー(Jeanne Moreau 1928.01.23- )

ヴァレリア・ブルーニ・テデスキ(Valeria Bruni Tedeschi 1964.11.16- )







 フランソワ・オゾン監督の思い入れがつまった作品、だと見て思いました。

 パリに暮らし、ゲイである三十一歳の男性がある日突然倒れ、入院する。検査の結果、悪性の腫瘍があることが分かる。状態はかなり悪く、余命三ヶ月だと宣告されます。

 家族もあり、恋人もあり、仕事もあった。そんな彼(ロマン)はある日突然人生のターミナル(終末)に直面する。





 ターミナル・ケアを専門に研究したことで評価の高いエリザベス・キューブラ・ロス(Elisabeth Kübler-Ross 1926.07.08-2004.08.24)博士によると「死の段階」は五つに分かることができるという。

 第一段階は「否認と孤立」、第二段階は「怒り」、第三段階は「取り引き」、第四段階は「抑鬱」、第五段階は「受容」である。

-『死ぬ瞬間 死とその過程について』より





 主人公ロマンが劇中、死の過程を経験する上でこの五段階を経たとは思えなかった。彼はあまりにも素直に死を受け入れていたようにみえた。生きようとする、生にしがみつくことをせず、訪れた死を目の前にして素直に生を手放したようにみえた。
 なぜだろう。仕事に対する意欲はあったはずだった。家族と もそれなりにうまくやっているように見えた。恋人とは倦怠期に入っていたとはいえ、それはどこの誰もが通過することだ。



 生にしがみつかないからといって、現実離れしているフィクショナルな映画と簡単には言い切れない。劇中の現実から浮いた感覚を持つ主人公こそオゾン監督が理想とする死に直面したときの姿勢なのかもしれない。


 冷静にことを見つめて、それを受け入れる。
余命が三ヶ月なら自分にやれることをしようとする。別れる人々に自ら別れを告げる。会えなくなる人々 に会いに行く。優しい声をかけることができなかった人々に声をかけにいく。自分には残せないだろうと思っていたものを残す。そして、自分が一番好きな場所に行き、ひとりになり、死を迎え入れる。



 この人は次作を撮ることができるのだろうか、と思って調べたらもう撮っていた。短篇が一本、そしてエリザベス・テイラー原作の小説 『Angel』の映画化『エンジェル』(2007)。




 そして日本未公開の『Ricky』(2009)




 さらに『Le refuge』(2009)




 そして撮り終えたばかりの最新作『Potiche』(2010)




 フランス映画だからなのか、オゾン監督だからなのか。ハリウッドのように映画を一大プロジェクトに仕立て上げ、スタジオが(小国家の予算なみの巨費を背負って)大掛かりに動き、プロデューサーがNOを出したり出さなかったりするのを経て、いくつもの歯車が絡み合い、どるどる どると動く感じではない。
ささっ、ぱぱっ、と動いている(ただの想像で、実のところは何も知りませんが)。
それでいてこの仕上がりは才能あるフィルム・メーカーの一人であることは間違いないでしょう。


2010年4月22日木曜日

横顔



ガチャピンの公式ブログに登場するムックの横顔が気になりました。

ガチャピン日記


よく見ると、目が飛び出ています。
いったいどういう顔の造形なんでしょう?

眼だけに意識を集中させると、それは眼に見えず、顔だけに集中させると赤いたたり神のようにも見える。




ムック (ひらけ!ポンキッキ) - Wikipedia

によると、


北極近 くの島で生まれた雪男イエティ)の男の子。年齢は永遠の5歳。身長は185cm、体重は110kg。

ジョン・レノンがモデルだという説もあるそうです。



そうだったんだ。















えー、

オチ的なもの

2010年4月20日火曜日

『百年恋歌』




映画『百年恋歌』 (『最好的時光』)
(2005)

監督,ホウ・シャオシェン(Hou Hsiao-Hsing 侯孝賢 1947.04.08- )

脚本,チュー・ティエンウェン(Chu Tien-wen 朱天文 1956.08 - )

撮影,リー・ピンビン(Lee Ping-bin 李屏賓 1954 - )

出演,スー・チー(Shu Qi 舒淇 1976.04.16- )

チャン・チェン(Chang Chen 張震 1976.10.14- )










 台湾映画。 歴史に触れずに見ることはできない映画でした。


なので台湾の歴史を少し調べてみました。
(台湾だったり、チベットだったり、ウイグルだったり中国大陸の歴史は入り組んでます)






(Wikipediaのページを飛び交うことによって得た個人的解釈に基づく)台湾の歴史

 ざぁっと飛ばして、清朝の台湾省だった台湾本島と周辺諸島は、日清戦争でなぜだか勝っちまった日本と敗北した清朝間で調印された下関条約 (1895)によって永遠に日本のものとされてしまいます。
 その日本による統治は第二次世界大戦の終戦(1945)まで続き、統治下で台湾の人々は大日本帝国国民とされ日本軍の食糧補給基地としての役割 を与えられます。

 今現在の台湾は、中華民国が実効支配していますが、中華人民共和国は台湾を自国の領土と主張し、双方で係争中の関係が続いています。

 では、清朝の領土であり、日本の領土となった台湾がどのような経緯を経て現在にいたったのか、さらにWikipediaを読んでみました。




 1915年に孫文(後に袁世凱と対立し、中国国民党を創建)を初代臨時大総統として成立した中華民国が清朝の後をとる形で中国本土を統治。
(ですが、当時中国本土は日清戦争の敗北があったり、辛亥革命があったりと怒涛の時代を迎えていました)

 中国国民党による中華民国は、毛沢東を代表とする中国共産党とアジア総植民地化を目論む大日本帝国軍と対立し続けていました。
(上海クーデターだったり、日中戦争だったり。つまり、外にも内にも敵がいたというわけです。本当に怒涛の時代だったわけです)


 そんな戦乱の最中、あの第二次世界大戦が開戦されます。
イギリス、フランス、アメリカ合衆国、ソビエト社会主義共和国連邦、中華民国を主として構成された連合国と、日本、ドイツ(ナチスドイツ)、イタ リアによる枢軸国との戦争です。

 ナチスドイツ打倒のため表面上は手を組んだアメリカとソ連が不気味です(冷戦の始まりでしょうか)。
ちなみに世界大戦中、中国国民党と中国共産党は国共合作という協力関係を結び大日本帝国と対戦します。ですが、その裏、中国国民党の背後にはアメ リカが、中国共産党の背後にソ連の姿がありました。

 第二次世界大戦終戦後(1945)は、大戦後の世界の縮図の利害を求め、西側の民主主義国家と東側の社会主義国家の両者が画策を続けます。(ド イツや朝鮮半島が二分されたのもこれが原因です)
 中国大陸では、国民党と共産党との対立が激化します。一時は国民党が大陸の大部分を支配していましたが、大戦後はアメリカからの援助が激減(冷 戦と朝鮮半島問題によって)、共産党はソ連の援助と敗戦した日本の兵器を得て軍事力を高めました。
 結果、国民党(中華民国政府)は台湾島へ退却。1949年、共産党は中華人民共和国を建国し、中国大陸を統治する。



 こうしてみても理解が難しい。

 つまり、国際政治上で「中国を代表する正統な国家」として承認されている中華人民共和国は台湾島の領有権を主張。国際社会はこれを否認するわけ にはいきません。
 一方、台湾本島の世論は、台湾島は中華人民共和国の主権に帰属するものではなく、中華民国という国家のものであると認識。

 結果、台湾はオリンピックに出場する時は「Chinese Taipei」(中華台北)と呼ばれ、世界貿易機関 (WTO) には「Separate Customs Territory of Taiwan, Penghu, Kinmen and Matsu」(台湾・澎湖・金門・馬祖個別関税領域)と呼ばれるようになりました。

 両国家ともに国民の90%以上(中国本土の92%、台湾の98%)が漢民族であるという点がその微妙なバランスを支えている。要するに民族は同 じじゃんか、ということです。もちろん、それに相反する考えもありますが。



 さらにややこしいことに、1990年代に入って中華民国とは別の「台湾」という国家を創り上げる台湾独立運動が活発化。中華人民共和国はこれに 強硬な姿勢をとり、反分裂国家法(2005)を施行。この法案は、台湾が独立を宣言したときに対するあらゆる武力行使を正当化するものであり、今現在は緊張関係に至っていないものの今後のアジアの不安要素として挙げられています。











 侯孝賢(ホウ・シャオシェン)は、大戦終了直後の1947年に中国本土の広東省で生まれ、幼少の頃に台湾に移住し、現在、台湾ニューシネマを代 表する監督の一人です。

 1947年は台北市で台湾大虐殺とも呼ばれる二・二八事件が起こった年でもあります。
(終戦を機会に、台湾の統治権は日本ではなく中国本土を追いやられた蒋介石を代表とする中国国民党政府のものとなります)

 この中国国民党。本土では軍事力や暗殺部隊にものを言わせる武力行使で支配権を広げていったのです。また、それに対抗する中国共産党は、反国民 党の農家などの多数の支持を得て、敗戦した日本が残した兵器を確保することによって軍事力を国民党と拮抗するほどのものとしました。


 ですから、日本から解放されたようにも見える台湾ではアメリカを背後につけた蒋介石の中国国民党政府による圧倒的な武力行使による恐怖政治が行 われました。これが二・二八事件をきっかけとして始まり、1987年に戒厳令が解除されるまで38年間施行されることとなったのです。1895年の下関条 約から数えれば92年間、他国に支配されていたことになります。

 当時、台湾の人々は「犬去りて、豚来たる」(犬(日本人)は五月蠅くとも役に立つが、豚(国民党)はただ貪り食うのみ)と言ったほど中国国民党 政府は腐敗しきっていたようです。


 ホウ・シャオシェン監督自身、戒厳令解除のわずか2年後に二・二八事件を描いた映画『悲情城市』(1989)を制作しています。







 この『百年恋歌』は、1966年、1911年、2005年という3つの時代に生きる男女を描いた映画です。
それぞれの時代に「恋愛の夢」、「自由の夢」、「青春の夢」とタイトルがつけられており、オムニバス映画の形をとっています。そして、それぞれ 違った時代の章に出てくる男女はまったくの同一人物が演じています。

 同じ人物同士でも時代が違えば二人の出会い(そして別れ)も違うということなのでしょう。人生は自国の歴史に大きく左右されてしまう。戦争直後 に生まれ、混乱の最中に青春時代を向かえ、成長した監督自身の経験が重なって見えます。自分が生まれる前のこと、自分が青春時代を過ごした時のこと、今後 の若者が青春を迎えていく時のこと。

 三つの時代の男女はそれぞれ違った形で出会い、恋に落ちますが、決してハッピーエンドでは終わりません。
これは映画なんだから、とハッピーエンドにすることもできたはずです(1966年の二人なんか特に)。
でもそうしなかった。それが印象的でした。


 素晴らしい映画。それを言うだけなのに。

 歴史は長い。


2010年4月19日月曜日

『セックスと嘘とビデオテープ』




映画『セックスと嘘とビデオテープ』 (sex, lies, and videotape)
(1989)

監督,脚本,スティーヴン・ソダーバーグ(Steven Soderbergh 1963.01.14- )

出演,アンディ・マクダウェル(Andie MacDowell 1958.04.21- )

ジェームズ・スペイダー(James Spader 1960.02.07- )

ピーター・ギャラガー(Peter Gallagher 1955.08.19- )

ローラ・サン・ジャコモ(Laura San Giacomo 1962.11.14- )










 ずっと見たかった映画。スティーヴン・ソダーバーグの第一回監督作品。1989年に制作され、ソダーバーグは当時26歳。 そうか。







 登場人物はたったの4人、とセラピストが1人。

アメリカ南部の町で弁護士をしているグラハム(ピーター・ギャラガー)とアン(アンディ・マクダウェル)の夫婦。そしてアンの妹のシンシア(ローラ・サン・ジャコモ)。

 グラハムは仕事中、会社を抜け出しては妻の妹であるシンシアと浮気をしている。アンはそれがあってかそれ以前からなのか夫に触れられることに生理的な嫌悪感を感じ、セラピーに通っている。
 普段はバーで働き画家を目指している(そのモラルの居所がどこであれ)性に対して開放的なシンシアとは対照的なセックスレスの姉アン。

 そこにグラハムの学生時代の友人ジョン(ジェームズ・スペイダー)が10数年ぶりに地元に戻ってきてグラハム家を訪れる。

 少し変わった感のあるグラハムに興味を持つアンだったが、ジョンのアパートには大量のビデオテープがあった。
 
 実際の女性には性的不能なジョンは、興味を持った女性に性的な質問をし、それに対し答えているところを撮ったビデオ映像を一人で見ることによって性的な興奮を得ていた。


 ジョンに興味を持った妹シンシアがジョンのアパートを訪れ、ビデオに撮られながら性的な質問に答えた。

 (自分には決してできない)先走った行動力を持つ妹にあきれたアンだったが、とあることがきっかけで夫のグラハムとシンシアが不倫の関係にある証拠をつきとめてしまう。

 茫然自失の状態でアンはジョンのアパートに行き、自分をビデオテープに撮ることを求める。





 このデビュー作品で、あのロバート・レッドフォードが立ち上げたインディペンデンス映画を大きく取り上げる新人の登竜門であるサンダンス映画祭で観客賞を受賞。そしてカンヌ映画祭でもパルムドールを受賞するという見事なスタートをしている。
(この作品から『アウト・オブ・サイト』までけっこう苦労するんですが)




2010年4月15日木曜日

ジュンク堂書店池袋本店





 残念ながら、今はもう変わってしまいましたが、ジュンク堂池袋本店のレジのシステムにはなかなか興味深いものがありました。


 一つのビルのすべての階が本屋という本屋好きにはたまらない場所で有名です。階はB1から9階まであり、その階ごとに漫画、小説、理工書、といった多岐にわたった専門書が取り揃えられています。

 そのビルの1階に、バー・カウンターのように長い会計所があり、その内側に店員がいて、その外側に客が並ぶ。こうして書くと至って普通のことであるが、B1か ら9階まである本のすべての会計を1階で支払うシステムとなっており、会計係として働いている店員は10名以上いる。つまり、十数か所の会計口があり、その 一つ一つに店員が一人ずつ就いている。そして、その会計口の前に客は買いたい本を出し、会計をする。

 それがなぜそのような仕組みになっていたのかよく分からないが、釣り銭を扱うキャッシャーは一つしかなかった。(残念ながら、今は会計口一つ一つにキャッシャーがあります)

 会計口で本のバーコードを読み込み、入力する端末機器はある。会計係はそこで入力 し、客に金額を伝え、預かり金をもらい、マザー・キャッ シャーに行き(すぐ後ろにある。巣の奥底に潜んでいる女王蟻のように)、預かり金を渡し、お釣りとレシートをもらっている。
そして、客のところに戻り、それを手渡し「ありがとうございました」 というわけです。 


 本屋の会計所としては大きな規模である。またジュンク堂池袋本店はとても人気があるのか、その十数か所の会計口のすべてにいつも会計待ちの客が並んでいる。


 見たことがない人には異様にも映るだろう。
会計口にずらりと並んだ店員、そしてマザー・キャッシャーを行き交う店員、同じ服を着た人たちが行ったり来たりしている。

 その光景は、夜中、おじいさんの代わりに革靴を作る小人たちにも似ている。
もしくは、傷口に入ろうとする病原体の種類を特定し、抗体を取りに戻り、対処する白血球の働きにも似ている。

2010年4月14日水曜日

『ザ・コーポレーション』




映画『ザ・コーポレーション』 (『THE CORPORATION』)
(2004)

監督,脚本,マーク・アクバー(Mark Achbar - )

監督,編集,ジェニファー・アボット(Jennifer Abbott - )

原作,ジョエル・ベイカン(Joel Bakan 1959 - )『ザ・コーポレーション』(早川書房)





The Corporation ザ・コーポレーション







 なぜ、地球上では英語が公用語となりつつあるのか。なぜ、経済は資本主義という形を取り続けているのか。

 理由はその両方に地球上の人類総人口を覆いつくせるほどのパワーがあるからだ。

 いや、違う。これほどまでに膨れ上がり増え続ける人類に対し、サイクル可能なシステムが資本主義だけだからではないだろうか。



 宇宙意思的ななんとかのなんとか、ではないけれど、何か大いなる循環的意思のはたらきとも思えるものがある気がしてしまう―生態系サイクルというか、生から死への放物線の過程といいますか。



 資本主義とは一体どういうものなのか。そして産業革命後に生まれた新たな組織体である企業とは一体何なのか。




 企業活動が引き起こした被害の事例をあげ、診断する。
つまり、資本主義下での企業の活動の総体を、一個人の言動として分析し、心理学的に診断してみるとどういう結果となるのか、ということを映画の中で実証している。




 映画の中であげられた事例は

“解雇”

“組合つぶし”

“工場火災”

“奴隷工場”

“危険な製品”

“有害廃棄物”

“汚染”

“合成化学物質”

“生息地の破壊”

“畜産工場”

“動物実験”







 チェック・ボックス式診断テストのように映像は続く。

□ Callous unconcern for the feelings of others.
 “他人への思いやりがない”

□ Incapacity to maintain enduring relationship.
 “関係を維持できない”

□ Reckless disregard for the safety of others.
 “他人への配慮に無関心”

□ Deceitfulness : repeated lying and conning others for profit.
 “利益のために嘘を続ける”

□ Incapacity to experience guilt.
 “罪の意識がない”

□ Failure to conform to social norms with respect to lawful behaviours.
 “社会規則や法に従えない”




 診断結果は・・・




2010年4月13日火曜日

『モグラびと ニューヨーク地下鉄生活者たち』

 
 
 
『モグラびと ニューヨーク地下鉄生活者たち』

著者,ジェニファー・トス(Jennifer Toth)

訳者,渡辺葉

出版社,集英社








 一つの事実として、ニューヨークの地下空間-現在運営中の地下鉄や前世紀の地下道など-にホームレスが住み着いている。一九八六年のニューヨー ク市当局の見積もりでは、地下鉄内だけで五千人が住んでいるとされていた。

 さらに、一九九一年の調査では、グランド・セントラルとペン駅だけで六千三十一人が確認されている。


 地下に人が住み着く。このことは『モグラびと』(原題『THE MOLE PEOPLE』)が刊行され、人に読まれるようになるまで極わずかの人の間でしか知られていない事実だったのではないだろうか。

 噂は陽を背にしたときの影のように伸び、モグラびとは手や足の指の間に水かきができているとか、人肉を食べていると囁かれた。



 地底人、ヴァンパイア伝説。映画のような話だが、この事実が基になっているのかもしれないと思った映画に『ブレイド』や『ディセント』、『マ イ・プライベート・アイダホ』、『ボム・ザ・システム』がある。



 重度の麻薬中毒障害が地下で怯えながら暮らす。心の拠り所となるホームを地下のコミュニティ内に築いているので、ホームレスと呼ばれることを嫌 い、ハウスレスと呼ばれることを好む。

 住人の中には子供もいる。幼いころにレイプされ、男娼として日々をしのいでいる者もいる。ほんの些細な諍いで命がやりとりされる。時には煙草一 本で。安価な麻薬を手に入れるために手放していくもの。

 日の光が届かない暗闇の中で怯える。やがて暗闇に慣れ、ものが見えるようになる。だが、暗闇に慣れるのと同時にある感覚が失われていく。

 暗闇は-地上と地下によらず-すべての人間の中から特異な一面をひっぱり出す。「刃」(ブレード)と呼ばれた男はそう語る。



「何人にも劣らぬ者であれ。また何人にも優れぬ者であれ。人は皆、己とは異なる顔かたちをして己自身と知れ。邪と俗を卑しめ。けれど邪と俗に憑か れし者を卑しむな。このことを心に刻め。慈しみと優しさを恥と思うな。されど己の生において殺さねばならぬ時が来たら、迷わず殺せ。そしてそれを悔やむ な」
ウィリアム・サローヤン

-本著第二十三章『「刃」(ブレード)と呼ばれた男』より抜粋








路上生活者34%増加―NY市


 このニュースによると、2010年の路上・地下鉄生活者は三千百十一だという。
およそ10年前に行った調査の六千三十一人(グランド・セントラルとペン駅だけで)と比べるとおよそ三千人の差がある。いったい三千人もの人々はどこに行ってしまったのだろうか。


 それ以前に、やはり、地下鉄の施設内で六千人もの人々が生活しているという事実に驚いてしまう。
それも、City of the Worldと呼ばれるニューヨーク市に。アメリカが誇る世界最先端の都市に。

 華やかな光あるところにできた巨大な暗渠なのだろうか。





2010年4月10日土曜日

『ハリス・バーディックの謎』


『ハリス・バーディックの謎』 (『The Mystery of Harris Burdik』)

著者,クリス・ヴァン・オールズバーグ(Chris Van Allsburg 1949.06.18- )

訳者,村上春樹

出版社,河出書房新社





 映画『ポーラー・エクスプレス』、『ジュマンジ』の原作として有名なクリス・ヴァン・オールズバーグの絵本。他にも著作があり、あまり知られていない名作が多数あります。


 その中でも『ハリス・バーディックの謎』という本が素晴らしい。内容は、いたってシンプル。14枚の絵と、その一つ一つにつけられた題名と短い文章。ページをめくり、絵を見て、文章を読む。そしてまた絵を見る。また文章を読み、絵を見る。すると、意識が一枚の絵の中に入り込み、想像力で映写機のようにかけ巡る。







 その冒頭にある序文がこれです。



はじめに


 この本に収められた絵を私が初めて見たのは一年前のことである。場所はピーター・ウェンダーズという人物の家だった。ウェンダーズ氏は今ではもう引退しているが、当時は児童書専門の出版社に勤めていた。本にするためのお話と絵を選ぶのが彼の仕事だった。

 三十年前に、一人の男がピーター・ウェンダーズの会社を訪れた。男はハリス・バーディックと名乗った。バーディック氏はこう語った。私は十四の お話を書き、そのひとつひとつの為に沢山の絵を描きました。今日は見本としてお目にかけようと思って、一冊につき、絵を一枚だけ持参しました、と。

 ピーター・ウェンダーズはそれらの絵にすっかり魅了されてしまった。これらの絵についている話の方を一刻も早く読みたいものですな、と彼は言った。それでは明日の朝に原稿を持って参りましょう、と画家は言った。彼はその十四枚の絵をウェンダーズのところに置いていった。でも翌日、彼はやって来な かった。その翌日も現れなかった。ハリス・バーディックの消息はそよとも知れなかった。何年にもわたって、ウェンダーズは調べてまわった。バーディックとはいかなる人物であり、ハリス・バーディックは完全なる謎の人物のままである。

 彼の失踪だけが、あとに残された謎ではない。これらの絵についていたお話というのはいったいどういうものだったのだろう?そこにはいくらかのヒントはある。バーディックはそれぞれの絵に題名と説明文をつけている。私がピーター・ウェンダーズに、絵と説明文を見れば話というのは自然に浮かんでくる ものじゃないですかと言うと、彼はにっこりと微笑んで、部屋から出ていった。そしてほこりのかぶった段ボールの箱を持って戻ってきた。その中には何十もの お話の原稿が入っていた。どれもみんなバーディックの絵について触発されて書かれたものだった。それらは何年も前にウェンダーズの子供たちや、その友人たちによって書かれたのだ。

 私はそれらの話を読んでみた。みんな立派な出来だった。あるものは風がわりだったし、あるものは滑稽だったし、あるものは真剣に怖かった。他の子供たちも同じようにこれらの絵に触発されることを希望しつつ、ここに初めてバーディックの絵を複製出版するものである。

クリス・ヴァン・オールズバーグ
ロード・アイランド プロヴィデンス

―本著より抜粋




 個人的なお気に入りはIt was a perfect lift-off.です。


2010年4月8日木曜日

『En la ciudad de Sylvia』



映画『En la ciudad de Sylvia』 (『Dans la Ville de Sylvie』) (『シルビアのいる街で』)
(2007)

監督,脚本,ホセ・ルイス・ゲリン(José Luis Guerín 1960 - )

撮影,ナターシャ・ブレア(Natasha Braier - )

出演,ザビエル・ラフィット(Xavier Lafitte 1974.08.08- )

ピラール・ロペス・デ・アジャラ(Pilar López de Ayala 1978.09.18- )







 スペインで主にドキュメンタリーを撮っていた監督ホセ・ルイス・ゲリン。舞台はフランスの北東部、ドイツ国境付近にある街ストラスブール。
 
 なので言葉はフランス語です。字幕がない映像で見たのでほとんどニュアンスでしか理解できず。









 同じスペインということもあるのでしょうか。ビクトル・エリセを思い起こさせるシーンがいくつもありました。





 絵描きを目指していた男は、数年前に訪れたストラスブールでシルビアという名前の女性と印象的な出会いをした。そして別れ、大事なものを失った。

 男は痛んだ心を抱え、自分の住む町に戻り、絵を描こうとして気がついた。女性の顔が描けなくなってしまっていた。画布に向かい、顔を描こうとするとストラスブールが思い起こされ、そこで出会ったシルビアの面影が浮かび上がってくる。だが、描いていけばいくほど、シルビアの面影は記憶の底に沈んでいった。
必ずそこで手が止まった。男が失ったものは画家としては致命的なものだった。



 それから、数年後、男は再び彼女に会うために、そして自分が失った何かを確かめるためストラスブールを訪れる。

 石畳が続くフランスの街並み。小さなホテルから程近いカフェは、天気がいいこともあってか地元の人と観光客でにぎわっていた。
 客の間で交わされる他愛のない話し声。観光客目当ての物売り。客の注文をとる店員。バイオリンを演奏している女性たち。
 男はオープンテラスにある席の一つに座り、周りの女性を見てデッサンに描こうとする。だが、やはり顔は描けない。あらゆる女性の中に彼女の面影を見出そうと、男はいくつもデッサンを重ねる。


 午後の暖かな時間をカフェで過ごす様々な人々の顔。男はそれらの顔から浮かび上がる瞬きのような表情を見て、何かを感じ取り、それを描きとろうとする。
 男は思う。いったい人の顔というのはどういうものなのだろうか、と。それはただ単に目と鼻の形の違いであったり、バランスの良い配置が意味成すものなのだろうか。
 男にとって顔が意味するものは、形の違いやバランスの良さなどではなかった。それは、表面上の美しさとは別のところにある、自分を奥底に惹きつける確かなものだった。それが何なのか、それを描きたかった。それは人それぞれが持っている、表情の向こう側にあるその人そのものだった。


 男は、人々の表情を違った角度で描こうと外側の席へと移り、デッサン帳を広げる。そこから見える店内には一人の女性客の顔があった。暖かな陽射しの中、店内にいる赤い服に身をまとった彼女にはシルビアの面影があるように見えた。赤い服の彼女はバッグを肩にかけ、店を出ようとしていた。
 男は席を立ち、彼女に声をかけようと後を追った。


 赤い服の彼女は、石畳が続く街並みを足早に歩く。感情。誤解。焦燥。失った彼女の面影を男は追った。街で日常を営む人々。学生。老人。男は彼女の背後から名前を呼んでみたが、反応はなかった。足早に移動し続ける二人。石畳を踏む大きな音と靴底と石が擦れたような小さな音がしていた。

 古くからある石造りの家々に響く足音。 そして静寂。

 ストラスブールの街には、急速な変化を必要としない景色があった。そして、そこには人々の思いが残っていた。ただそこに居る人。空き瓶が道を転がる。音が鳴る。走る子ども。歩く人びと。自転車に乗っている人びと。座っている老人。面影を追い続ける男。


 一度は見失った彼女を見つけ、乗り込んだトラム(路面電車)の中で男は彼女に声をかける。

 男は言う。覚えてないかな。数年前、君に会ったことがあるんだよ。ずいぶん前のことだから忘れてるかもしれないけど。



 結局、それは人違いだった。赤い服の女性はシルビアではなかった。
彼女にしてみたら、自分の後を追いかけてくる見知らぬ男を警戒し、足早に歩いているだけだった。男は自分の非礼に気づいた。謝りようもなかった。赤い服の女性は次の停車駅で降りていった。


 男は再び街を歩いた。そして人々の顔を描こうとした。昼は公園だったり、夜はバーだったり。

 翌日、男は再び街に出て、トラムの停車駅にいるたくさんの人々の表情の中にシルビアを探した。強い風が吹いていた。デッサン帳のページがめくれ、女性の長い髪は生きもののように舞っていた。
 行きかう人々。到着し、去っていく電車。その窓ガラス越しに見える人々の姿。そのガラス窓に、駅で待っている人々の姿も反射して映っていた。いくつもの顔が透けて、反射し、重なって見えた。その中に一人の女性の顔が見える。それこそがシルビアの顔だった。男は静かにそれを見ていた。風でめくれるデッサン帳のページには顔のないたくさんの女性が描かれていた。





 素晴らしい映画でした。それに尽きます。

2010年4月7日水曜日

『カレワラ物語』

 
 
 
『 カレワラ物語』

著者,キルスティン・マネキン(Kirsti Mäkinen

訳者,荒牧和子

出版社,春風社




 世界三大叙事詩でもあるフィンランドの民族叙事詩「カレワラ」の物語化。神話や叙事詩は物語の起源だと。ちなみに三大叙事詩の残り二つは、古代ギリシアのホメーロス作「イーリアス」、古代インドのヴァールミーキ編纂「ラーマーヤナ」。

 






 ヴァイナモイネンは大あわてで老人に鉄の起源を語りはじめた。悪事をはたらいた鉄の起源をまずは明らかにしなければならない。物の起源が明らかになる と、悪事は勢いを失い、効力も失う。だから鉄の起源がわかれば、斧による傷をなおすことができる。
 鉄は何から生まれたのか。刃物の起源は何だったのか。
―本文より抜粋





2010年4月4日日曜日

映画『再会の街で』

映画『再会の街で』 (『reign over me』)
(2007)

監督,脚本,出演,マイク・バインダー(Mike Binder 1958 - )

出演,アダム・サンドラー(Adam Sandler 1966.09.09- )

ドン・チードル(Don Cheadle 1964.11.29- )

ジェイダ・ピンケット=スミス(Jada Pinkett Smith 1971.09.18- )

リヴ・タイラー(Liv Tyler 1977.07.01- )

サフロン・バロウズ(Saffron Burrows 1972.10.21- )

ドナルド・サザーランド(Donald Sutherland 1934.07.17- )





再会の街で - オフィシャルサイト



映画『再会の街で』予告編








映画『再会の街で』の予告編から分かること

かつてアメリカの大学の寮で二人の男がルームメイトになった。
数年後、彼らは道端で偶然すれ違う。

 そのうち の一人が、現在歯科医師として診療所に勤めているアラン(ドン・チードル)。彼は偶然見かけたかつてのルームメイト、チャーリー(アダム・サンドラー)に声をかけるのだが、 チャーリーは気づかずに去ってしまう追いかけて再度声をかけるが、チャーリーにはその当時の記憶が一切残っていない。
チャーリーは「plane crash」で家族を喪ってしまったのだと知ったアラン。


 かつての寮友に訪れた悲劇を想像する。
ある日突然家族を喪ってしまうことがどういうことかを考える。それは、その喪失は、彼の彼足らしめる全てのもの を根こそぎ取り去ってしまったのではないだろうかと。現実が友から奪い去ったものはあまりに も大きすぎたのではないかと。

 チャーリーにとってその喪失は、受け入れる ことはおろか、否定することすらできない喪失だった。その深い悲しみは容赦なくチャーリーを覆う。
だからチャーリーはそれらの全てに重りをつけ て、浮かび上がってくることのない奥深くに沈めようとしているのだと、そこにアランの考えは辿り着く。


 アランは学生時代を思い起こさせるような付き合いをチャーリーと始める。戯れ、映画を観て、音楽を楽 しみ、酒を飲み、語りあう。
「plane crash」で大きな何かを喪失したのは多くのアメリカ人が経験したことだ。喪失する前とした後では、人生ががらりと違ってしまう。以前と同じように振舞 いたくても振舞えない。古き良き時代に戻りたくても戻れない。
だが、かつての日々はことある ごとに心の中で蘇り、その度すべてが悲しみに埋もれていく。


 唯一、できる ことがあるとすれば、喪失の後に、自分にとって確かなものを再構築していくことだけだ。それがどんな形のものであろうと。石の形が 変わってしまっていても、たとえそれが石ではなかったとしても、一つ一つ積み重ねていくしかない。
















2010年4月2日金曜日

『メリンダとメリンダ』

映画『メリンダとメリンダ』 『Melinda and Melinda』
(2004)

監督,脚本,ウディ・アレン(Woody Allen 1935.12.01- )

撮影,ヴィルモス・ジグモンド(Vilmos Zsigmond 1930.06.16- )

出演,ラダ・ミッチェル(Radha Mitchell 1973.01.01- )

クロエ・セヴィニー(Chloe Sevigny 1974.11.18- )

ブルック・スミス(Brooke Smith 1967.05.22- )

ウィル・フェレル(Will Ferrell 1967.07.16- )

アマンダ・ピート(Amanda Peet 1972.01.11- )

キウェテル・イジョフォー(Chiwetel Ejiofor 1974.07.10- )

ウォーレス・ショーン(Wallace Shawn 1943.11.12- )

ラリー・パイン(Larry Pine 1945.03.03- )






メリンダとメリンダ オフィシャルサイト






 レストランにて食事中、とある女性のエピソードを聞いた二人の劇作家-一人は悲劇作家マックス(ラリー・パイン)、そしてもう一人は喜劇作家サイ(ウォーレス・ショーン)が想像をふくらませて語るエピソードが映画の本編となっています。


 この写真のポスターにあるとおり、ウディ・アレンが持つ二つの仮面(ペルソナと解釈していいだろう)が繰り広げる対照的なドラマツルギーがこの映画の(またはウディ・アレン映画の)すべての元となっているのではないでしょうか。

 そして、この映画でもウディ・アレンの配役の妙は、他の映画監督のそれとは比較にならないほど際立っています。喜劇作家は喜劇作家然とした顔をしているし、悲劇作家は悲劇作家然とした顔をしています。そして、付け加えるならば、喜劇作家の顔の中には、それと同時に悲劇的な一面を持ち合わせているし、悲劇作家の顔の中にもそれと同時に喜劇的な一面を持ち合わせている。

 わかりにくいかもしれないが、つまりは、あらゆる喜劇には悲劇的側面があり、また、あらゆる悲劇には喜劇的側面がある、ということだ。

 対照的に思える二つの側面も、似かよった部分というのは必ず存在するものだ。


 誰かが語るエピソードが映画の本編となっている、という観点から見ると、「ギター弾きの恋」(SWEET AND LOWDOWN)と共通している。
 ジャンゴ・ラインハルトに傾倒しているギタリスト、エメットの伝説的エピソードをウディ・アレン等演じるジャズ批評家が語り、その回想録が映画の本編となっている。






 


Comic or tragic,the most important thing to do is to enjoy life while you can because we only go round once,and when it's over,it's over.

 悲劇でも喜劇でも 生きてるうちが華だ

 人生は一度きり 死んだら おしまいさ



 「メリンダとメリンダ」のアメリカ公開当時、ウディ・アレンは69歳。そこから出てきたこの台詞には意味深いものを感じずにはいられない。