2010年12月12日日曜日

ワイルダーならどうする?

先日、とある人からふとしたことで商品券のようなものを頂いた。

日頃のお礼だということだった。けど、こういうものはもらったはいいがお礼と使い道に困ってしまう。だからといって「要らないです」と返すのも相手の心を無下にするようでできない。

結局、以前から買いたいと思っていたけれども、何度も図書館で借りて隅から隅まで読んでいたから手元に置いておくほどのものでもないか、でも手元に置いてこその内容だったな、という本を買うことにしました。



それがこの本。







1997年から1998年にかけて映画監督ビリー・ワイルダーに、ライターでもあり映画監督でもあるキャメロン・クロウが行ったインタビューをまとめた本。



午前十一時の面会の約束にふれるとワイルダーは驚き、にわかに申しわけなさそうな態度になった。忘れていたと言い、階上の事務所にあがるよう促した。「一緒に来てくれないか。それにサインしよう」
私と階段をあがりながら、頭のなかで今週の予約を確認しているようだった。いや、いや、聞いてないぞ。キャメロン・クロウという男と会うなんて。ドアを開けて、私を招じ入れた。マルレーネ・ディートリッヒの写真が掲示板に鋲でとめてある。デイヴィッド・ホックニーによるワイルダー夫妻のコラージュ写真が壁にかかっている。アインシュタインのポートレイト。フレームに入った、クロサワ、フェリーにとならんだ写真。そしてドアの上方には噂に聞いた名高い文字。ソール・スタインバーグのデザインによる「ルビッチならどうする」。


ルビッチならどうする?』あの文字を長いあいだ壁にかけてきた。シナリオを書くとき、企画を練るとき、絶えずあれを見つめてきた。「ルビッチならどういう道を進むか? 彼ならどうやって無理なく見せるか?」
―本文から抜粋










そして、商品券とは関係なく買ったのがこの本。




プロダクト・デザインのパイオニア柳宗理が88歳を迎えて刊行する、初のエッセイ選集。



デザインのアノニマス性に関して記述している箇所が強く心に残る。















2010年12月5日日曜日

Ducks blown off their feet by the wind

 
 
 
 
 
 
















心の声「親ー!」

親「ずざざー ・・・ ずばばー」



2010年12月4日土曜日

ハードワーク

Mail no.1036に書きましたが、人口が過密でストレスフルな街に住む人の中には押し潰されそうになっている人もいる。


先日、自転車(クロスバイク)で街乗りしていると、対向してくるロードバイクに乗ったおじさんが近づいてきた。

自転車も車と同じで左側車線を走るという自転車乗りのルールがあります。そして僕はそのときそれを守らず右側車線を走っていた。

おじさんは僕を避けるでもなく、真正面から近づいてきて二台の自転車がぶつかる寸前に止まった。

そして、おじさんは汚い捨て台詞を吐いて、去っていった。

ルールを守っていない僕がよくないんだけど「おじさん、狭いのは東京の街ではなくあなたの心だよ」と僕は思った。





話は変わりますが、街には空き缶を拾い集めて生計を立てている人がいます。

地域によって相場は違うそうですが、だいたい1kgの空き缶が100円だということです。

空き缶一つの重さがだいたい20g。単純計算だと500個集めてやっと100円になるということです。一日5000円稼ごうとすると25000個の空き缶が必要になります。

これを調べたきっかけが、最近この空き缶を集めて生計を立てている人をよく見かけるのでそんなに儲かるのか? と思って調べてみました。

それができるならもっと他の仕事できそうなのに、そう思ってしまう。
でも、そういう人に限って昼間から缶チューハイを飲んでたりする。


あと、電車の網棚の捨て(忘れ)雑誌を集めて生計を立てている人もいます。

それは分かるんですが、スーツを着た帰宅途中のサラリーマンのおじさんが駅のゴミ箱のふたを開けて雑誌を探してたりしている光景もたまに見る。


過度な人口密度とデータ上でしかない競争社会が生んだ人間関係というのはとことんなところにまで近づきつつあるようです。



そういえば、新宿を友人と歩いていたとき、ビルから眼鏡をかけた地味な若い青年が出てきて「さあて、今日はこのお兄さんに声かけて終わりにしようかな」と僕にだけかろうじて聞こえる大きさの声で話しかけてきたことがある。

僕はそういうのはあれなので、聞こえてないふりはもちろん、気づいているのに気づいてないふりをしてその場を去った。(つまり何のリアクションもせずにただ歩いたということです)
あとあと考えてみたら、怪しいDVDを買わせる人だったようです。

道端、勉強中なので手相を見せてくださいと言って声をかけて、途中からなぜかツーマンセル(二人一組)になって高いツボを買わせる人もいる。

この人たちの驚くべきところは見た目に"それらしきところ"が一切ないところです。

どこにでもいそうな普通の人"がまったく普通ではないことをして生計を立てている。


これに比べると渋谷の駅前に立っている(どこからどう見てもキャッチするだろう姿の)キャッチの人たちがかわいく見える。

初対面だろう若い女の子のアゴを「うりー」と言いながら指で撫でて声をかけている渋谷駅前のキャッチの光景を見ると、太陽のこもれ日の中で揺れる草原を見ているかのようなのどかな気持ちになります。



そしてこれが今日の昼、近所の道で見かけた光景。






夕方になっても状況は変わってませんでした。





嫌気がさして走り去ったのでしょうか。

しんどい仕事だもんね。





12月だというのに日中の気温が20度を超えている。
こういうのって顔を持たない地球の表情なのかもしれない。


今地球はどういう表情をしているのでしょうか。

ACなことを思っちまいました。



2010年11月30日火曜日

目からウロコ雲

立ち寄ったコンビニのレジ横に肉まんがあった。


以前、ローソンで肉まん買ったとき、店員に「からしをつけてください」と言ったら怪訝な顔をされた。
関東(東京?)では肉まんにからしをつけて食べる習慣がないとその時初めて知った。
(それとも単にコンビニではオプションとしてつけてないだけなのでしょうか)

出身地である関西(大阪)では肉まんを買うと当たり前のように小口のからしがついてくる。
僕は肉まんを食べるとき、ウスターソースとからしをつけて食べるのがおいしいと思っているから、ステイ・クールに「からしつけてください」と言った面目が行き場を失ってしまったが、なんとか着地することができた。青と白の縦じまの制服を着たローソンの店員のお兄さんも、少し離れたところでおでんを選んでいるお姉さんも事の成り行きを静かに見守っていた。

そもそも大阪では肉まんのことを豚まんといいます。なぜかというと、551の蓬莱、という大阪では知らない人はいない豚まんで有名な店があるからです。




大阪では"肉"といえば牛肉のことだから、なんて説もありますが、要は肉まんで有名な店が"豚まん"といって売り出してそれが有名になったから大衆的支持率を勝ち取ったのだろう、と思う。

アメリカで携帯電話のことをセルフォン(cell phone=cellular phone セルラー社製の電話)と呼ぶのと同じですね。



肉まんに、いや豚まんに話は戻りますが、551の蓬莱の豚まんは旭ポンズと同様に他府県が知らない大阪の実績ある名産品です。




この旭ポンズというポンズを一度口にしてしまうと他のポンズでは味気なく感じてしまう。
幼いころから慣れ親しんだ味ともいえるが、旭ポンズがないとポンズで食す何かを食べる気がしない。




肉まんにウスターソースとからしをつけて食べてみたくなったなあ。

























タイトル?

タイトルは思いついただけのダジャレです。
目からウロコ雲。


想像すると、 ほのぼのです。

2010年11月27日土曜日

スティーブ・マックイーンの青い目

1960年代から1970年代、独自性と新感覚にあふれた映像表現で男と女と汗と血と砂埃を描き、過度のアルコールとドラッグの摂取で荒野を転がるタンブル・ウィードのようによれよれになっていった映画監督サム・ペキンパー


の『ゲッタウェイ』を見ました。



『ゲッタウェイ』 (『THE GETAWAY』)
(1972)

監督,サム・ペキンパー(Sam Peckinpah 1925.02.21-1984.12.28)

原作,ジム・トンプソン(Jim Thompson 1906.09.27-1977.04.07)

脚本,ウォルター・ヒル(Walter Hill 1942.01.10- )

撮影,ルシアン・バラード(Lucien Ballard 1908.05.06-1988.10.01)

音楽,クインシー・ジョーンズ(Quincy Jones 1933.03.14- )

出演,スティーヴ・マックィーン(Steve McQueen 1930.03.24-1980.11.07)

アリ・マッグロー(Ali MacGraw 1939.04.01- )

アル・レッティエリ(Al Lettieri 1928.02.24-1975.10.18)







一見、粗暴で野卑で汗臭いだけにも見えるスティーヴ・マックィーンの目は驚くほどに青い。





刑務所に入っている男、ドク・マッコイ(スティーヴ・マックィーン)が仮釈放の申請を却下される。また一年後に申請を出せるが、それを阻止しているのが地元の有力者であり闇社会のフィクサーでもあるジャック・ベニヨンだった。
そこでマッコイは妻を通じてベニヨンに取引をする。仮釈放と引き換えに銀行強盗を行ない、ベニヨンの言い分どおりの取り分を支払う、というのがその取引の内容だった。
綿密に行われた調査を下敷きに計画された強盗だったが、ベニヨンの手配した"仲間"は思うようには動かず、そのうちの一人が警備員を射殺してしまう。そして、もう一人の貪欲な"仲間"がその警備員を射殺した"仲間"を射殺し、マッコイを待ち伏せしすべてを横取りしようと企む。
それに気づいていたマッコイは貪欲な"仲間"を返り討ちにし、ベニヨンの下に向かうがその先でさらに事は展開する。






ロードムービーの極み。


『トゥルー・ロマンス』や『ヒート』、さらに多くのクライムアクション・ロードムービーに影響を与えたと思える。





2010年11月8日月曜日

Mail no.1036


 
 
 


Mail no.1036

 私は大学で経済学を勉強しています。経済学とは少し離れた内容ですが社会学、特に消費社会やジェンダーについてゼミで勉強しています。河合隼雄先生の本も読みました。そのなかで“現在人は仕事への意味や拘束が希薄となり、自由な時間が増え、その自由な時間に人生や死について考えなくてもいいように映画やゲーム、音楽などのエンターテイメントに時間を費やしている”ということを学びました。
 先生はこのような現状をどのようにお考えですか? 私はカフカ君みたいな読書好きな少年がこれからもっと減ると思います。また最近、本を読むことより映画を見たり、ゲームをしたりすることに時間を費やしている人が多いことについて小説家としてどのように思われますか? (というか私もエンターテイメント大好き人間なんですけどね。)
 追伸『海辺のカフカ』、面白かったです。寝る暇を惜しんで、そして授業中も読みました。夢にまででてきました(笑)。でもゼミのM先生には「村上春樹は現実離れしすぎ」と批判されてしまいました…。それでも先生の本を読みつづけるつもりです、応援してます!
 21歳で福岡の大学に通っています。


▼Reply to 1036

 なるほどね。いちいちむずかしいことを考えないために、エンターテインメントに時間を費やしているんだ。そういえば、最近道を歩きながら携帯で電話をかけている人が多いですね。僕なんかいつもあれこれ考え事をしながら道を歩いているんだけど、そういう人たちはあるいは考え事をしないために携帯で話をしたり、ウォークマンを聴いたりしているのかもしれません。でも考えごとをしながら道を歩くのって、楽しいです。ときどき考え事に集中しすぎて、どこかにぶつかったり、ぜんぜん違う場所にでちゃったりするけど。
 あなたのゼミのM先生によると、僕の小説は現実離れしすぎているということですが、実はそんなこともないんです。現実は僕にとってすごく切迫したものです。僕はM先生とは違う角度から現実を眺めているだけなのです。様々な視点を包含して世界は成立しています。
―『Kafka on the Shore Official Magazine 村上春樹編集長 少年カフカ』より抜粋 






 それはそれとして。
 以前から、道を歩いていて、携帯も何も手にしていないのに独り言を言ったり、笑っている(にやにやしている)人を見かけます。男性女性に関わらず。

 思い出し笑いなのかな、と思っていましたが、見かける頻度がとても高い。


 東京ってそんなに住みにくくストレスフルな場所なのかな、と思いましたが、あらゆることに器用に対応できる人が全体の5%いるとします。その反対に、何事についても思うように対応できない不器用な人も同じく5%いるんだと思います。
 その中間どちらでもありどちらでもない人たちが90%を占めている。

 そう考えると東京都の人口約1300万人の5%、65万人の人が彷徨っているのかもしれません。

 その反対にあらゆることに器用に対応できている人の65万人もある意味では彷徨っています。その彷徨い方が違うだけで。


 財産でもなく、娯楽でも快楽でもなく、ニューエイジでも精神性でもない現在。理想となるロールモデルが実在していない。




 走るのは簡単なんです。

暗闇で、流れに応じず歩いている人を見てみたい。

2010年11月6日土曜日

大喜利 @amazon.com

ふとしたところで見つけたウェブ記事。

 

 

 

とんでもない流れに…アマゾンの製品レビューがお祭り騒ぎ



アマゾンの写真00

オンラインショッピングさえあれば、生活用品はだいたい何でも揃う便利な時代です。

ただし手にとって商品を見ることはできないので、商品の説明や写真はもちろんのこと、購入客によるレビューなどが大いに参考になります。

アマゾンには「カスタマーズイメージ」と言う購入客が画像をアップロードする機能があって便利なのですが、このカスタマーイメージが発端となって、レビューがお祭り状態になっている製品がありましたのでご紹介します。






Amazon.com: AutoExec - WM-01 - Wheelmate Steering Wheel Desk Tray - Gray -: Automotive
アマゾンの写真01
なんと、デスクトレイ付きの自動車のハンドル!一瞬超便利かも!と思うかもしれません。

この製品がどんな風に便利かという、ユーザーによカスタマーイメージの画像が、いろいろ上げられていました。


アマゾンの写真02

こんな風に設置してモノを置くスペースが出来るわけです。


アマゾンの写真03

こんな風に運転中でもメモを取ったり出来ます。


アマゾンの写真04

その結果、こんな可能性があったり、


アマゾンの写真05

こんな可能性があったり、


アマゾンの写真06

こんな可能性があったり、


アマゾンの写真07

こんなことになる可能性もあるようです。

そして商品レビューは、さらに熱い流れとなっていました。

そのうち参考になったと投票数の多いものを抜粋してご紹介します。



1952人中、1913人の方が「このレビューが参考になった」と投票しています。
★★★★☆ これは大陸横断のフライトに最適だった!

By Linky's Dad

副操縦士と私の2人とも、これをサンディエゴからミネアポリスまでの大陸横断のフライトに利用しています。(買ったときには飛行機にはハンドルがないこと に気付かなかったので!)計器パネルの上にうまく取り付けるために少し改造しなくてはいけませんでしたが、最終的には装着できました。
ノートPCをそこに置けるため、WoW(オンラインRPG)のコミュニティに参加したりなど大事なことに集中できるようになりました。前回のフライトで はあまりにのめりこんでしまったため、ミネアポリス上空を通りすぎてしまい、1時間半も過ぎてから乗務員の一人が「連邦航空局とF16戦闘機」などとぶつ ぶつ呟いていました。
ぜひまた次の飛行でもこの商品を利用したいと思います。これはかなりオススメです!


3550人中、3448人の方が「このレビューが参考になった」と投票しています。
★★★★★ 今までで一番最高な発明品!

By T.Meadows

わお、これは本当にすばらしい!僕はこれをバーに行く時に、「ミニバー」として使っているよ。友だちと運転中に、さっとテキーラショットを作ってはバーか らバーへと移動している。さらにこの上に枕を置いて、車をクルーズコントロールにすると短い睡眠だって取れるんだ。ちょっと車が右や左へ寄ってもランブル ストリップ(高速とかで道路からはみ出ると震動を感じる車線)が事故を起こす前に余裕を持って起こしてくれる。疲れることもなく長距離が運転できるよ。
あと彼女がめちゃくちゃチビなので、そこの座らせて運転中にセクシャルな体験も出来る。とにかくこれは潤滑油とかダクトテープのように百万通りの使い方があるんだ。


658人中、636人の方が「このレビューが参考になった」と投票しています。
★★★☆☆ 良いけどちょっと問題だ

By Jamie O'Shaughnessy

このキットは僕の人生を劇的に変えてくれました。高速道路で運転中に、かなり多くの仕事ができるので生産的です。おかげでボーナスが上がり、昇進も出来たんです。人より抜きん出たかったらこれを買うべきです。
ただ一つだけ問題があって、これを使っているときにいくつか起こした事故で、エアバッグが膨らむとノートPCのモニターをバタンと急激に閉めるので、そ のとき指を骨折をしてしまいます。現在エアバッグ指プロテクションがないか探していますが、今のところところ見つかっていません。


941人中、902人の方が「このレビューが参考になった」と投票しています。
★★★★★ すごい!楽譜を置くのにちょうどいい

By Brent A.Nelson

これはすごい役に立ってます。楽譜をハンドルにもたれさせて立てかけることができるので、運転しながら両手を使ってギターを弾けるようになりました。
220人中、212人の方が「このレビューが参考になった」と投票しています。
★★★☆☆ おむつを替えるには適さない

By Bob Dobbs

運転しながらおむつを替えられたと4つ星や5つ星をつけている人のをレビューを見て購入しましたが、僕には替えられませんでした。ですから僕は返品しようと思っています。
107人中、103人の方が「このレビューが参考になった」と投票しています。
★★☆☆☆ 思っていたより便利じゃなかった

By John Meinken

bbぼくは、このノートPCホホルダーを郵便kkk局で受けけとり、今運転ししています。mmmまぁまぁいいk感じですが道がガタガタのtところででは、tタイピングがm難しkく、h歩行者や交通量が多くPCにs集中できません。
多分ネット徘徊やメールjjjj受信にはいいかもですが、複雑な作業はそれほどど役に立つとは思えません。あるいは急なk角度のきついカーブは曲がりきれません。なので気づくとh反対車線にいることになります。
(ミスタイプは原文再現)

77人中、66人の方が「このレビューが参考になった」と投票しています。
★★★★★ 運転用ではないですよ

By Dave Goldenberg

これは運転用に作られたわけではありません。これはこの景気低迷のために車での生活を余儀なくされた人用です。私たちは食事の時間にこれをダイニングテー ブル代わりに使っています。夜にはこの上でトランプをします。そして子供のベッドとしても使えます。もし車まで失ってしまい外で暮らすときには、ショッピ ングカートに取り付けることもできます。景気の悪いときには現実的なプレゼントになります。 




と、こんな風に悪乗りした(?)レビューであふれかえっていました。

526ものレビューがあった内の数個を抜粋しただけですが、他にもいろんな使い道があるようです。

便利なんだか、不便なんだかわからない製品ですが、少なくともこれらのカスタマーイメージによって、危険運転防止の役に立っているとは言えそうです。








秀逸な大喜利ですよね。

kkk声に出してwww笑っちゃいました。

2010年10月25日月曜日

ちなみに原文はこう。

としょかん通信: 長いお別れ




 清水訳『長いお別れ』と村上訳『ロング・グッドバイ』で最も違うところは台詞だというのが多くの読者の声のようです。

 映画字幕翻訳家でもある清水さんは色んなところをすっ飛ばして翻訳し、小説家である村上春樹さんは原文に忠実に翻訳している。



 たとえば、第34章の冒頭はこう違う。


(清水俊二訳)
 街道から丘の曲がり角までの舗装が破損している道が真昼の暑さのなかで踊って、両がわの乾ききった土地に点在しているくさむらが埃を浴びて小麦粉のように白くなっていた。草の匂いがむっと鼻について、吐き気を催しそうだった。なまあたたかい風がかすかに吹いていた。私は上衣を脱ぎ、シャツの袖をまくりあげていたが、車のドアが熱くなっているので、腕をやすませることもできなかった。かしの木立ちにつながれた馬がものうげに仮睡(いねむり)をしていた。褐色の皮膚の道路を横ぎってころがってきて、地面から岩が露出しているところでとまり、いままでそこにいたとかげが少しも動いた様子がないのにいつのまにか見えなくなった。



(村上春樹訳)
 ハイウェイから降りたあとの、丘の曲がり口まで続く未舗装道路は、正午近くの暑気に踊るように揺れていた。道路の両脇の太陽にあぶられた土地には、低木が散在していたが、花崗岩の粉塵を浴びて見事に真っ白になっていた。草いきれの匂いは吐き気を誘うほどむっとしている。微かに吹く風は熱く希薄で、とげとげしさがあった。私は上着を脱ぎ、シャツの袖をまくり上げていたが、ドアは熱すぎて腕を置くこともできなかった。繋がれた一頭の馬が、樫の木立の下でくたびれきったようにまどろんでいた。肌の浅黒いメキシコ人が地面に座り、新聞紙に包まれた何かを食べていた。枯れ草のかたまりが風に吹かれて大儀そうに転がり、道路を横切っていった。それが剥き出しになった花崗岩にぶつかって止まると。そこにいた一匹のトカゲが一瞬間を置いてから、動いた気配もなくさっと消えた。




 ちなみに原文はこう。

The stretch of broken-paved road from the highway to the curve of the hill was dancing in the noon heat and scrub that dotted the parched land on both sides of it was flour-white with granite dust by this time.The weedy smell was almost nauseating. A thin,hot,acrid breeze was blowing.I had my coat off and my sleeves rolled up,but the door was too hot to rest an arm on.A tethered horse dozed wearily under a clump of live oaks.A brown Mexican sat on the ground and ate something out of a newspaper.A tumbleweed rolled lazily across the road and came to rest against a piece of granite outcrop,and a lizard that had been there an instant before disappeared without seeming to move at all.

2010年10月10日日曜日

長いお別れ




『長いお別れ』

著者,レイモンド・チャンドラー

訳者,清水俊二

出版社,早川書房



 1939年にデビューし、1959年に亡くなるまで小説を書いていたアメリカ合衆国シカゴ生まれの小説家レイモンド・チャンドラーの代表作。

 ロス・アンジェルスで私立探偵を営むフィリップ・マーロウを主人公としたシリーズ作品の中の一つ。

 窓際のブラインドが下げられ、煙草の煙がこゆらぐ室内。天井でカタカタと回るシーリング・ファン。そこを訪れる場違いな香水の匂いと高いヒールの靴音。室内にいるのは元地方検事局の捜査官のフィリップ・マーロウ。気に入らない仕事は決して引き受けず、厭世的で皮肉を混じらせたユーモアと孤独を好む男。

 時代が違えばいわゆる"ハードボイルド小説"と取られてしまうかもしれませんが、何事もひとくくりにはできなくなってしまった現在、この小説の真の棚分けは難しいのかも知れません。『ロング・グッドバイ』として新訳した村上春樹さんは『The Long Goodbye』を"準古典小説"と棚分けしています。


 フィリップ・マーロウの一人称の語りで物語は進む。その語りには厭世的で皮肉を混じらせたユーモアがあり、装飾に次ぐ装飾、喩えに次ぐ喩えの連続がある。

 たとえば、フィリップ・マーロウがバーで見かけた金髪の女性を一頁以上にわたって喩える語りがある。

 金髪の女は珍しくない。金髪ということばがしじゅう洒落や冗談につかわれているほどだ。どの金髪にもそれぞれの特色があった。ただ一つの例外は漂白した金属のような金髪で、その性格は舗道のように味わいがない。しじゅうおしゃべりをしている小柄で可愛い金髪もあるし、氷のように碧い瞳で男をよせつけない大柄でものものしい金髪もある。色あいがよく、きらきら輝いて、男の腕にすがることを慣わしとして、送って帰るときはいつも疲れきっている金髪もいる。いざとなると、ひどい頭痛がするといいはじめて、男はなぐりつけてやりたくなるのだ。もっとも、時間と金と希望をつぎこみすぎないうちに頭痛戦術がわかったことを喜ぶ男もいるだろう。頭痛はいつでも使える武器で、刺客の刃かルクレチア(ルクレチア・ボルジア)の毒薬のびんほどの効き目があるからだ。
 どんな男ともすぐしたくなる酒の好きな金髪もいる。彼女はミンクでさえあれば何を着ようと頓着をしないし、ガラスの天井の下でシャンペンが飲めればどんなところへでもよろこんでついてくる。いつでも友だちづきあいのつもりで、男に迷惑をかけたがらず、健康と常識を充分に持ちあわせていて、柔道にくわしく、《サタディ・レヴュウ》の社説を一行もまちがえずに覚えているというのに、トラックの運転手に背負い投げをくわせることぐらいは朝飯前だという元気のいい金髪もいる。命にはかかわらないがどうしても治らない貧血症のうすい、うすい金髪もいる。きわめて生気がなく、なんとなく影がうすく、どこでしゃべっているのかわからないような低い声でものをいい、だれも手を出すものはいない。一つには手を出す気になれないからであり、一つにはいつも『荒地』(T・S・エリオットの長詩)か原文のダンテを読んでいるか、カフカやキェルケゴール(デンマークの宗教思想家)を読んでいるか、プロヴァンス語を学んでいるからである。こういう女は音楽が好きで、ニュー・ヨーク・フィルハーモニックがヒンデミットを演奏しているとき、六人のコントラ・バスのうちの一人が四分の一拍子おくれたことを指摘してくれる。彼女のほかには、トスカーニも指摘できるそうだ。
 そしてさいごに、次々に結婚した三人のギャングの大親分が三人とも殺され、その後百万長者と二度結婚、一人から百万ドルずつもらって、アンチーブ岬(フランスの避暑地)のばら荘に住み、運転手と副運転手がいる"アルファ・ロミオ"をのりまわしている眼のさめるような金髪がいる。こういう女の邸にはいつも大勢の貴族くずれがあつまり、召使が老侯爵のまえに出たときのようにあしらわれている。
 向こうの端の"夢の女"はこれらのどの種類の金髪でもなかった。山にわきでる泉のように澄んでいながら、その色のようにとらえどころがなく、分類することがむずかしかった。私のひじのすぐそばで私に呼びかける声が聞こえたとき、私はまだ女の方を見つめていた。


 こういった装飾や比喩が読めるかどうかでレイモンド・チャンドラーが読めるかどうかが決まると思う。ただ、これほどまでに自己完結している小説は珍しいのではないでしょうか。




 あらすじは、とある日フィリップ・マーロウは、高級クラブの前に停められたロールスロイス社製のシルバー・レイスの車内でぐでんぐでんに酔っ払って眠っているテリー・レノックスと名乗る男と出会う。裕福というだけで何もかもを勝ち得たかのような気になっている女に無碍にあしらわれているテリー・レノックスにフィリップ・マーロウは好感を持ち、一宿一飯の面倒を見る。

 そのあと、フィリップ・マーロウとテリー・レノックスは何度かバー〈ヴィクター〉に出かけて、ギムレットを飲んだ。テリー・レノックスは自分を無碍にあしらった大金持ちのハーラン・ポッターの娘シルヴィアと再婚し、得るものを得て、失うものを失った。

 二人が会わなくなった一ヶ月の朝五時にテリー・レノックスはフィリップ・マーロウの自宅に突然現れる。その手には拳銃が握られていた。

 テリー・レノックスが何かしらの犯罪に関わっていると知りながらフィリップ・マーロウは彼を空港に送り、高飛びの手助けをする。そして、そのことで警察に引っ張られて留置所に入れられ手荒い事情聴取をされるが、フィリップ・マーロウは友人をひとかけらも売りはしなかった。

 屋敷の別館で浮気を繰り返していた妻を射殺し、青銅の猿の置物で顔の原型がなくなるまで殴った、というのがテリー・レノックスにかけられた容疑だった。どんなことがあろうともあの男にそこまで酷いことはできるはずがない、フィリップ・マーロウは固くそう信じていた。

 だが、テリー・レノックスは高飛びしたメキシコの田舎町オタトクランで拳銃自殺をした。フィリップ・マーロウに一通の手紙を残して。億万長者の娘の惨殺事件は、その犯人であろう夫の自殺によって半ば強制的に幕を閉じた。

 フィリップ・マーロウはこれ以上事件を大きくされたくない誰かに雇われた弁護士によって釈放され、メンディ・メネンデスというギャングのボスにレノックス事件から手を引けと脅される。


 常に何かがどこかで釈然としない中、アルコール中毒でありベストセラー作家でもあるロジャー・ウェイドの行方を捜して欲しいという依頼を(ロジャー・ウェイドの編集者であるハワード・スペンサーを通じて)妻のアイリーン・ウェイドから受ける。

 フィリップ・マーロウはアルコールに溺れ、自堕落な生活をするロジャー・ウェイドとテリー・レノックスの姿を重ねて見ていたのかもしれない。もぐりの医者をしているヴァリンジャーの下からロジャー・ウェイドを救い出し、湖岸に建てられた彼の家に送った。

 〈ヴィクター〉でギムレットを飲んでいたシルヴィアの姉リンダ・ローリングと出会い、彼女の夫であり医師であるエドワード・ローリングがアイリーン・ウェイドの主治医であり、医師による専門的な処方箋にしたがって彼女に麻薬性鎮静剤を瓶ごと与えていた。


 ロジャー・ウェイドの件を引き受けたとは言わないものの、ロジャー・ウェイドから(あるいはアイリーン・ウェイドから)呼び出されれば家まで出向き、面倒をみるようになる。




 だが、ロジャー・ウェイドもまた拳銃自殺した。

 確かにロジャー・ウェイドは何かに悩み苦しみ、それをアルコールで埋めようと飲み続けていた。泥酔し、朦朧とした意識の中で机の引き出しにしまってあった拳銃を取り出し、こめかみに当て、引き金を引く。しかしそれにしては不可解な死に方だった。


 ロジャー・ウェイドは酔っていよう酔ってなかろうと、常にタイプライターを叩いていた。だが、自分が死ぬという時なのに遺書のようなものを書き残してはいなかった。

 湖の水上を走るスピードボードの音が最も大きくなるタイミングで引かれた引き金。

 妻のアイリーン・ウェイドは鍵を忘れたと家の呼び鈴を鳴らし、さらにその日が召使の休日である木曜日ということも忘れていた。


 すじが通っていないことが多すぎた。そこには絡み合った事情があり、痴情があった。フィリップ・マーロウは最初から最後まで亡き友人にかけられた罪をはらすことだけを考え行動していた。












 清水訳『長いお別れ』と村上訳『ロング・グッドバイ』で最も違うところは台詞だというのが多くの読者の声のようです。

 映画字幕翻訳家でもある清水さんは色んなところをすっ飛ばして翻訳し、小説家である村上春樹さんは原文に忠実に翻訳している。



 たとえば、第34章の冒頭はこう違う。


(清水俊二訳)
 街道から丘の曲がり角までの舗装が破損している道が真昼の暑さのなかで踊って、両がわの乾ききった土地に点在しているくさむらが埃を浴びて小麦粉のように白くなっていた。草の匂いがむっと鼻について、吐き気を催しそうだった。なまあたたかい風がかすかに吹いていた。私は上衣を脱ぎ、シャツの袖をまくりあげていたが、車のドアが熱くなっているので、腕をやすませることもできなかった。かしの木立ちにつながれた馬がものうげに仮睡(いねむり)をしていた。褐色の皮膚の道路を横ぎってころがってきて、地面から岩が露出しているところでとまり、いままでそこにいたとかげが少しも動いた様子がないのにいつのまにか見えなくなった。



(村上春樹訳)
 ハイウェイから降りたあとの、丘の曲がり口まで続く未舗装道路は、正午近くの暑気に踊るように揺れていた。道路の両脇の太陽にあぶられた土地には、低木が散在していたが、花崗岩の粉塵を浴びて見事に真っ白になっていた。草いきれの匂いは吐き気を誘うほどむっとしている。微かに吹く風は熱く希薄で、とげとげしさがあった。私は上着を脱ぎ、シャツの袖をまくり上げていたが、ドアは熱すぎて腕を置くこともできなかった。繋がれた一頭の馬が、樫の木立の下でくたびれきったようにまどろんでいた。肌の浅黒いメキシコ人が地面に座り、新聞紙に包まれた何かを食べていた。枯れ草のかたまりが風に吹かれて大儀そうに転がり、道路を横切っていった。それが剥き出しになった花崗岩にぶつかって止まると。そこにいた一匹のトカゲが一瞬間を置いてから、動いた気配もなくさっと消えた。



2010年9月19日日曜日

ケ・セラ・セラ



「意外なことに映画館に行って映画が出てくるのはマレである」

映画を見るたび思い出す名言です。




















「ケ・セラ・セラ」の流れる別の映画とは『知りすぎていた男』(ヒッチコック)のことです。




黒田硫黄の名著作『映画に毛が3本!』から

2010年9月6日月曜日

映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の山場、そしてブラッド・ピットの表情




映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』は、80歳の容姿で産まれ、歳を経るごとに若返るベンジャミン・バトンが全編167分の中で運命の女性デイジー・フラーと何度も出会い、そして別れる物語である。


ベンジャミンが初めてデイジー(6歳)と出会うのが12歳のとき(容姿は68歳)。





あるときはベンジャミンが老いすぎていた。

またあるときはデイジーが若すぎた。そしてまたあるときはその両方だった。

それでもベンジャミン・バトンとデイジー・フラーは出会い、別れ、再会し、また別れる。









そんな映画『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』の山場はこんな形で訪れる。








Sometimes we are on a collision course, and we just don't know it.
(時々、我々は自身も気づかぬうちに避けがたい成り行きに身を立たされることがある)

Whether it's by accident or by design, there's not a thing we can do about it.
(それが偶然であろうと故意的であろうと、事の成り行きに対し我々ができることはない)


A woman in Paris was on her way to go shopping.
(パリに住む一人の女性が買い物に出かけた)
But she had forgotten her coat, went back to get it.
(だが、コートを忘れ、部屋に戻った)

When she had gotten her coat, the phone had rung.
(彼女がコートを取ったとき、電話が鳴った)
So she had stopped to answer it and talked for a couple of minutes.
(彼女は電話に出て、数分の間、話をした)

While the woman was on the phone, Daisy was rehearsing for a performance at the Paris Opera House.
(女性が電話に出てた頃、デイジーはオペラ座での公演のためリハーサルをしていた)

And while she was rehearsing, the woman, off the phone now had gone outside to get a taxi.
(デイジーがリハーサルをしている中、女性は電話を切り、外に出てタクシーをつかまえた)

Now, a taxi driver had dropped off a fare earlier and had stopped to get a cup of coffee.
(その時、一人のタクシーの運転手がいつもより早めにコーヒーを飲んでいた)

And all the while, Daisy was rehearsing.
(その間もずっとデイジーはリハーサルをしていた)

And this cab driver, who dropped off the earlier fare and had stopped to get the cup of coffee he picked up the lady who was going shopping and had missed getting the earlier cab.
(そして早めの休憩をしていたタクシーの運転手は、買い物に行こうとしてタクシーを捕まえ損ねた女性を拾う)

The taxi had to stop for a man crossing the street who had left for work five minutes later than he normally did because he forgot to set his alarm.
(タクシーは道を横切る男に急停車する。男は目覚ましをセットし忘れ、いつもより五分出勤が遅れていた)

While the man, late for work, was crossing the street Daisy had finished rehearsing and was taking a shower.
(遅刻した男が道を横切っているとき、デイジーはリハーサルを終え、シャワーを浴びていた)

While Daisy was showering the taxi was waiting outside a
boutique for the woman to pick up a package which hadn't been wrapped because the girl who was supposed to wrap it had broken up with her boyfriend the night before and forgot.
(デイジーがシャワーを浴びている頃、タクシーはブティックの外で女性を待っていたが、品物は包装されていなかった。包装するはずの店員が昨夜彼氏と別れ、忘れていたからだった)

When the package was wrapped, the woman, who was back in the cab was blocked by a delivery truck.
(商品が包装され、女性が戻ったときタクシーは宅配のトラックに道をふさがれた)

All the while, Daisy was getting dressed.
(その間、デイジーは着替えをしていた)

The delivery truck pulled away and the taxi was able to move.
(宅配のトラックは立ち去り、タクシーは動き出した)

While Daisy, the last to be dressed waited for one of her
friends who had broken a shoelace.
(着替えを終えたデイジーは、靴ひもが切れた友達を待っていた)

While the taxi was stopped, waiting for a traffic light.
Daisy and her friend came out the back of the theater.
(タクシーは信号を待ち、デイジーと友達は劇場の裏口から外に出た)

And if only one thing had happened differently
(もし、一つでも違った展開になっていたら)

...if that shoelace hadn't broken.
(靴ひもが切れてなかったら)

...or that delivery truck had moved moments earlier.
(宅配のトラックが少し早く動いていれば)

...or that package had been wrapped and ready because the girl hadn't broken up with her boyfriend.
(店員が彼氏と別れずに商品が包装されていたら)

...or that man had set his alarm and got up five minutes earlier.
(男が目覚ましをセットしていて五分早く起きていれば)

...or that taxi driver hadn't stopped for a cup of coffee.
(タクシーの運転手がコーヒーを飲んでいなかったら)

...or that woman had remembered her coat and got into an earlier cab.
(女性がコートを忘れず、早くタクシーに乗っていれば)

...Daisy and her friend would have crossed the street and the taxi would have driven by them.
(デイジーと友達は道を渡っていたことだろうし、タクシーはその側を通っていたことだろう)

But, life being what it is, a series of intersecting lives and incidents out of anyone's control that taxi did not go by and that driver momentarily distracted.
(だが、連なり交じり合った人と出来事が人生で、それは誰にもコントロールできない。タクシーは通り過ぎず、運転手は一瞬目を離していた)

And that taxi hit Daisy and her leg was crushed.
(タクシーはデイジーをはね、彼女の脚はこなごなになった)







そして、このシーンの後、傷を負い、混乱しているデイジーはベンジャミンに「Just stay out of my life.」と言う。


言われたベンジャミンは一瞬うつむき、そして顔を上げる。
その顔にはあらゆる感情や表情が消えている。




監督のデヴィッド・フィンチャーは(「きっと、それぞれの経験によって映画の持つ意味は変わる」と踏まえて)こう語っている。

「ブラッドの演技は今までの中で最も胸を打つものだった。彼のリアクションが素晴らしい。何度も撮る必要はなかった。台詞の後の彼の反応が信じられないほど見事なものだった。4~5テイクで終わった。ここはとても勉強になる。ブラッドの反応を見てほしい。彼女に“関わるな”と言われる。顔を下げ、次にほぼ無表情になる。何とも驚くべき演技力だ。彼女を見るシンプルな表情からいろんな感情や思いを感じ取ることができる。彼女の思いを受け止め、ただぼう然として彼女の顔をじっと見つめる。編集のカークも驚いてたね。10秒か15秒は止まってたよ」






としょかん通信: 『ベンジャミン・バトン 数奇な人生』


2010年8月26日木曜日

教材映像として見る 映画『グラン・トリノ』






先日、改めて映画『グラン・トリノ』を見ていたら、何度も笑える場面があって感動してしまいました。






初めて見たときは、あの結末があまりにもドラマティックで、そこに納得がいかず、「これだからクリント・イーストウッドは」と思って、くしゃくしゃに丸めて映画のゴミ箱の中に放り込んでしまいました。


イーストウッドの映画って"あまりにもドラマティック"なものばかりですよね。
見ていてまずそこが鼻につくんです。偉そうに書いてますが、"あまりにもドラマティック"ですよね。



『ミリオンダラー・ベイビー』といい、『チェンジリング』といい、硫黄島といい、星条旗といい、過去の土埃と拳銃ものといい、なぜかイーストウッド作品とは(それこそ)ウマが合わない。



ですが、『ミスティック・リバー』のショーン・ペンの演技はどこにも比類しない素晴らしいものです。




*** 注 ***

映画『ミスティック・リバー』を未見の方はまず本編を見てください。本当に素晴らしいシーンですから。









二十代前半、朝鮮戦争に兵士として戦地に赴いた過去を持つウォルト・コワルスキー(年齢は70歳くらいだろうか)。

ポーランド系アメリカ人の彼は、ミシガン州の工業都市デトロイトの郊外にある白人居住区に住み、自動車メーカー"フォード"に50年間勤め、結婚し、子供を二人育て上げた。


その彼の妻の葬式シーンで映画は始まる。






ウォルト・コワルスキーは、無愛想で堅物、そして、とにかく口が悪い。
JapやChink、spookは当たり前、zipperhead、gook、なんていう人種差別的発言も平気でする。




妻に先立たれたウォルト(と若い神父が言うと「ミスター・コワルスキーと言いなおせ」と睨む)は、老いた愛犬のデイジーの世話や、庭の整備と自宅の修繕をして、玄関ポーチのベンチに座り、磨き上げた1972年製のフォードの"グラン・トリノ"を眺めながら煙草に火をつけて、冷えたビールを飲み、残された余生をそれなりに平和に過ごすはずだった。






だが、隣家にアジア系モン族の一家が引っ越してきたことをきっかけにウォルトの生活は変化していく。










最初に、感動したと書いたが、感動したのはあの取って付けたような"あまりにもドラマティック"なエンディングにではない。

(皆はっきりと口に出さないまでも)人種差別が当たり前のデトロイトの郊外で、戦争を背負ったまま生きている堅物なじじいがそれらをジョークにしてしまっていることだ。



面白いシーンはいくつもある。

亡き妻が熱心に通っていた教会の神父がウォルトのもとにやってきて、「私が死んだら罪を抱えて苦しんでいる夫のことを頼むと、生前の奥さんは言っていた」と言う。「そして、どうか夫に"告解"をさせてやって欲しい」

ウォルトは神父を害虫のように払いのける。だが神父は諦めることなく再度ウォルトの家を訪問する。
そして、そこでウォルトにこう言われる。


Well, I think you're an over-educated 27-year-old virgin who likes to hold hands of ladies who are superstitious and promises them eternity.







通っている床屋の店主と悪態を交し合うシーンも素晴らしい。



店主マーティン(以下M) "There. you finally look like a human being again. You shouldn't wait so long between haircuts, you cheap son of a bitch."

ウォルト(以下W) "Yeah. Well, I'm surprised you're still around. I was always hoping you'd die and they'd get somebody who knew what they were doing. Instead you just keep hanging around like the doo-wop dago you are."

M "That'll be 10 bucks, Walt."

W "Ten bucks ? Jesus Christ, Martin. What are you, half Jew or something ? You keep raising the prices."

M "It's been 10 bucks for the last five years, you hard-nosed, Polack son of a bitch."

W "Yeah, well, keep the change."

M "See you in three weeks, prick."

W "Not if I see you first, dipshit."






そして、隣家のモン族の娘スーが黒人の三人組に絡まれているのを助けるシーン。





そのスーに誘われて隣家で行われているパーティーに(ビールを飲みために)同席するウォルト。

そこでウォルトは、異教徒の占い師という胡散臭い男に、妻にも(もちろん神父にも)打ち明けることのできなかった核心をつくことを言われる。

自分の周りを見ると、モン族の人たちが集まり、食事をして、語らい、くつろいでいる。


ウォルトがそこでつぶやいた一言こそ、この映画の核心でした。

"God, I've got more in common with these gooks than I do my own spoilt rotten family."

僕がこの映画で最も感動したのはこのシーンです。















そこで思いました。この『グラン・トリノ』。素晴らしく優れた教材映像なんではないかと。
もし、それを説明できる教師がいれば。


まず、アメリカ建国の歴史と現在までの推移、デトロイトにおける人種間コミュニティの違い、朝鮮戦争におけるモン族の存在、アメリカ内での隣人感覚的なポーランド系(ユダヤ系、イタリア系)アメリカ人の捉われ方。

その中心にあるものは、日本の歴史や関係性の齟齬にも通じるものがある。














『グラン・トリノ』 (『GRAN TORINO』)
(2008)

監督,製作,出演,クリント・イーストウッド(Clint Eastwood 1930.05.31- )

脚本,ニック・シェンク(Nick Schenk - )

撮影,トム・スターン(Tom Stern 1946.12.16- )

衣装デザイン,デボラ・ホッパー(Deborah Hopper - )

音楽,カイル・イーストウッド(Kyle Eastwood 1968.05.19- )

出演,ビー・ヴァン(Bee Vang 1991.11.04- )

アーニー・ハー(Ahney Her 1992 - )

クリストファー・カーリー(Christopher Carley 1978.05.31- )

ジョン・キャロル・リンチ(John Carroll Lynch 1963.08.01- )

スコット・リーヴス(Scott Reeves 1986.03.21- )





映画『グラン・トリノ』オフィシャルサイト











2010年8月21日土曜日

お金が人を幸福にしない理由




お金が人を幸福にしない理由:心理学実験から | WIRED VISION





興味深いことに、事前に大量のユーロ紙幣を見せられた被験者たちは、経験を楽しむ能力のスコアが有意に低かった。この結果は、人間はただお金の画像を見るだけでも、人生の小さな喜びを楽しむことへの興味が薄れる可能性を示唆している。


お金の画像を見るだけで人は薄幸になる。

そうなんだ。すごい生き物ですね。人間って。




映画『ヴィレッジ』を思い出しました。あれって「アーミッシュ」なんですね。


膨大な財産を使い、自分たちの親族を現世から完全隔離して共同生活を行う。これって凄く有効なお金の使い方だと思います。方向性さえ合っていれば。

お金のことについて語っている人はたくさんいますが、そろそろ現実世界でも有効にお金を使ってる人を見てみたい。


でかい家建てて、複数の車を所有して、諸欲に走るのはもう見飽きました。













以下、全文転載。



Jonah Lehrer

画像はWikimedia


お金は、必ずしもわれわれを幸せにはしない。貧困レベルを脱すると、「富のレベル」は「幸せのレベル」にそれほど大きな影響を与えない(特に先進国では)。歴史上最も豊かな国と考えられる21世紀の米国でも、人生に満足できない人たちが増えてきているようだ。


お金と幸福が単純に比例しないということは、「お金はなぜ人を幸福にしないのだろうか?」という興味深い問いを生む。この問いに対して、先ごろ『Psychological Science』誌に発表された研究が、1つの回答を出した。


ベルギーのリエージュ大学の心理学チームが行なったこの研究は、[ハーバード大学の]心理学者Daniel Gilbert(ダニエル・ギルバート)氏が提唱した「実際の経験によって幸せの尺度が拡張される」という(experience-stretching hypothesis)を検証したものだ。[未来を予想しているときは幸せだが、実際に経験すると簡単には満足できなくなるという説。ダニエル・ギルバート氏の邦訳書は、『幸せはいつもちょっと先にある―期待と妄想の心理学』(早川書房)]


リエージュ大学のチームは、お金は人が最高に贅沢な喜びを味わうことを可能にする(贅沢なホテルに泊まり、高級な寿司を食べ、素晴らしいガジェット を買える)が、それゆえに、日常のありふれた喜び(天気の良さや冷えたビール、チョコレートなど)を味わう能力を低下させると考えている。そして、われわ れが遭遇する喜びのほとんどはありふれたものであるため、贅沢をする能力を得ることは、喜びを味わう能力にとっては、かえって逆効果になるのだという。


研究チームは、リエージュ大学の成人職員351人(用務員から上級管理担当者まで)を集めてオンライン調査を実施した(筆者注:幸福など、人生の充 足度に関する要素を、今回のような多肢選択式のテストを用いて有意に測定できるかどうかは、現時点ではまだ明確になっていない。そのため、結果の解釈には 注意が必要だ)。


研究チームはまず、[ランダムに分けられた2グループのうち]半数の被験者に対して、山のように積んだユーロ紙幣の画像を見せた後、彼らの「楽しむ能力」を測る一連の質問を行なった。


テストでは、重要な課題をこなす(充足感)、遠出してロマンティックな週末を過ごす(喜び)、ハイキング中に見事な滝を発見する(畏敬の念)とい う、いずれかの経験を想像するよう求められる。いずれのシナリオも、それに対する反応として8通りの選択肢がある。そのうち4つは、[初めに紹介した]経 験を楽しむ反応だ(肯定的な感情を表わす、その瞬間の気分を楽しむ、その出来事を楽しみに待つ/追想する、その経験について他人に話す)。被験者は、その ような状況下で自分が通常とるはずの行動を最もよく表わしている反応を、1つまたはそれ以上選ぶように求められ、経験を楽しむ選択肢を1つ選ぶごとにポイ ントを1つ獲得する。


興味深いことに、事前に大量のユーロ紙幣を見せられた被験者たちは、経験を楽しむ能力のスコアが有意に低かった。この結果は、人間はただお金の画像を見るだけでも、人生の小さな喜びを楽しむことへの興味が薄れる可能性を示唆している。


さらには、現実に多くのお金を稼いでいる被験者ほど(被験者は全員、収入を尋ねられた)、楽しむ能力を測るテストのスコアが有意に低かった。その 後、カナダの学生を対象に行なった実験も、最初の実験と同様の結果となった。事前にカナダ・ドル紙幣の画像を見せられた学生の方が、出されたチョコレート を味わって食べる時間が短かったのだ。以上の研究について、研究チームは寒々しい調子で次のようにまとめている。


われわれの研究は、人間の楽しむ能力に関しては、富を連想させるものを見るだけでも、実際に富を得るのと同じ有害な影響が生じることを示している。 楽しいことを経験できるという認識を持つことは、それだけで、日常の楽しみを損なうのに十分な効果があると考えられる。言い換えれば、人間の楽しむ能力を 低下させるために、実際にエジプトのピラミッドを訪れたり、有名なカナダのバンフの温泉に1週間滞在したりする必要はないということだ。そのような最高に 楽しいことはたやすく経験できるという認識を持つだけで、日々の小さな喜びは、あって当然のことと捉える気持ちが強まる可能性がある。


この研究で私が思い出すのは、アーミッシュだ。彼らは自動車やインターネットを持たず、銀行や郵便さえも利用しない。そして、幸福感を尺度で表して もらうと、アーミッシュたちの満足度はForbes400(Forbes誌が認定する世界の富豪)の満足度に匹敵するのだという。


アーミッシュの満足度には、安定した家族や人間同士の絆の強さ、信仰の深さなども関係しているだろうが、その一部には、「実際の経験によって幸せの 尺度が拡張される」という理論も関係してくるのではないだろうか。彼らは、最新のiPhoneや新しいレストランや流行のファッションとは関係の無い生活 を送っている。それゆえに、人生の本質的な部分を楽しめる能力が優れているのかもしれない――それらは全て、お金では買えないものなのだ。


[アーミッシュは 米国の一部に住むキリスト教の一派で、近代以前の生活様式を守っている。アーミッシュの子供は16歳になると、一度親元を離れて俗世で暮らす「ラムスプリ ンガ(rumspringa)」という期間に入る。ラムスプリンガではアーミッシュの掟から完全に解放され、特に時間制限もない。ラムスプリンガを終える 際に、アーミッシュと絶縁して俗世で暮らすかどうかを選択するが、ほとんどはアーミッシュであり続けることを選択するとされる。この模様は 『Devil's Playground』というドキュメンタリー映画の中で語られている]



オハイオ州のアーミッシュ。画像はWikipedia
[日本語版:ガリレオ-高橋朋子/合原弘子]

2010年8月20日金曜日

啓蒙かまぼこ新聞







著作『せんべろ探偵が行く』 で、千円でべろべろになるまで飲める店を紹介した中島らもさん。



2004年7月16日未明、神戸某所の飲食店の階段から転落して全身と頭部を強打。脳挫傷による外傷性脳内血腫のため神戸市内の病院に入院。
その後、意識が戻る事は無く、事前の本人の希望に基づき、人工呼吸器を停止。同月26日午前8時16分に死去。享年52歳。

中島らも - Wikipedia







(若さだけで生きていけると思っていた)ある日、酒を飲んで、翌朝目が覚めたら自宅だったことがあります。
店を出て、家にたどり着くまでの記憶が一切なく、よく帰り着けたなと「帰巣本能」でも働いたかと感心していたのですが、全身に強い痛みが。
見てみると体や顔に青アザを通りこえた黄色いアザがあった。(完全に細胞が死んでいる色だった)

どこでどうなったのかも記憶にない。



このことを思い出すとき必ず中島らもさんのことが頭を横切る。
もちろん直接は知らないし、著作や活動に詳しいというわけでもないけれど、このエピソード(酩酊状態で階段を転げ落ち、意識不明になり、そのまま、という)だけは強烈な印象を保ち続けています。


映画『リービング・ラスベガス』もそうですが、すぐにでもアルコールの依存から脱け出さなければ(ある程度の実感を伴う経験をした後、故人と同じようなことしてちゃ、後に生まれてきた意味がないでしょ)と強く思うほど「のめり込み度」が深すぎる。




そんな(どんな?)中島らもさんの著作『啓蒙かまぼこ新聞』の解説に村上春樹さんの名前が。




『中島らもとニュー・ウェストの抬頭』という題名で書かれた文章。日付は一九八六年九月とあります。ということは村上春樹さんが37歳の時に書いたということです。

文中にもありますが、長期の海外旅行前の忙しい最中に書いた、とあります。
1986年10月に村上春樹さんは日本を離れ、(結果三年間)ギリシャやイタリアなどで暮らし、『ノルウェイの森』、『ダンス・ダンス・ダンス』を執筆されていますから本当に直前のことだったようです。


いったい、どういう経緯で解説を書くようになったのかは分かりませんが、文中から察すると、「中島らもさんの書く文章に好意を持っている」、「村上春樹さんと中島らもさんの出身地が関西(阪神間型)ということが関係している」、「食べ慣れ親しんだ『かねてつのカマボコ』」がその理由として挙げられますが、本当のところはやはり分かりません。


ともかくも、
村上春樹さんが若いときに書かれた文章には、今の村上春樹さんからは出てこない特徴がいろいろとあって面白い。 ヘミングウェイの文章のことを「餃子食って寝っ転がってるみたいな文章」(『ウォーク・ドント・ラン』 詳細の記憶は曖昧です)だと表現したりだとか。

この『中島らもとニュー・ウェストの抬頭』には村上春樹さんの奥さんが(そして、その奥さんの妹さんも)登場します。

村上春樹さんの奥さんが登場するエピソードに外れなしだと僕は思っています。
ボヤキとケナシ役の奥さん、とステイ・クールを気取る旦那がやりとりする夫婦漫才みたいなんですよね。






そんな(一度も会ったことがない)中島らもさんの文章の魅力を村上春樹さんはこう書いています。

僕が中島らもの文章を好むのは、そういう「実在感の消し方」がわりに好きだからである。たぶんこの人には本質的なてれがあって、それでごく自然にこういう文章とか文脈で物事を処理しようという方向に流れていくのだろうと思う。僕は実際に中島らもに会ったことがないので、正確には何とも言えないのだけれど、たぶんそういう人じゃないかと思う。てれて、てれて、放っておくとそのままどんどん物事の泥沼的側面にはまりこんで抜けだせなくなるというタイプである。だから物事の本質を意識的に稀釈していくことで自己を救済しようと努めているのではないかという気がする。







『啓蒙かまぼこ新聞』

著者,中島らも

出版社,ビレッジプレス

2010年8月17日火曜日

ジブリ 創作のヒミツ





現在公開中の映画『借りぐらしのアリエッティ』。


借りぐらしのアリエッティ 公式サイト



監督に抜擢されたのは、1973年生まれの米林宏昌さん(37歳)。
近藤喜文さんの初(で最後の)監督アニメーション作品『耳をすませば』に感動して、スタジオジブリへの入社を決意したという。




米林宏昌(呼称マロ)さんが監督に抜擢された経緯は、鈴木プロデューサーがどこかで発言されていたのを見て知っていました。



新作の監督を誰にするのかと宮崎監督に聞かれたとき、鈴木プロデューサーはとっさに「マロがいいと思う」とおっしゃったそうです。

候補として挙がるならこの人だろう、という共通の認識すら持てないほど人材がいないということなのでしょう。



スタジオジブリでの新人監督の抜擢は今回が初めてのことではありません。
劇場版長篇作品でいえば、過去に近藤喜文さん、森田宏幸さん、宮崎吾朗さんが起用されましたが、第二回監督作品を作った人は一人もいません。

近藤喜文さん(『耳をすませば』)は病気でお亡くなりになりましたし、森田宏幸さん(『猫の恩返し』)は移籍(?)でしょうか。
宮崎駿監督の実子である宮崎吾朗さん(『ゲド戦記』)は、原作者が「冒涜」と言うほどの駄作を作ってしまいました。


ゲド戦記Wiki - ジブリ映画「ゲド戦記」に対する原作者のコメント全文





後継者が育たない土壌。


原因は、宮崎駿監督の色があまりにも濃すぎるためです。

起用された新人監督に対し、クリエイターとして(時に一人の突出したエゴを持つ人間として)真っ向から衝突するのを辞さない、というのが宮崎駿監督のやり方でした。











『借りぐらしのアリエッティ』を制作している間、宮崎監督は何をしていたのか。鈴木プロデューサーは宮崎監督に何か言ったのか。米林宏昌監督とはどういう人物なのか。






2010年8月10日(火)、NHk総合で放送されたテレビ番組、『ジブリ 創作のヒミツ 宮崎駿と新人監督 葛藤の400日』


この夏、公開のジブリ最新作「借りぐらしのアリエッティ」、その制作の舞台裏の長期密着ドキュメントに加え、スタジオではCGを駆使しジブリ映画の魅力を徹底解剖する73分のスペシャル番組。
今回の作品は、脚本を宮崎駿(69)が担当、だが監督は36歳の全くの新人。これまで宮崎の下で活躍して来た敏腕アニメーターを大抜擢したのだ。その背景には、新たな“才能”を育ててこれなかったという強い危機感がある。実は、これまでも幾人もの若手が監督を任されてきたが、宮崎はその強いこだわり故に作品作りに介入、最後には乗っ取ってしまうことも多かった。そこで今回、宮崎は作品に介入しないと決めた。その一方で手助けなしで映画を作りきることを強いられた新人監督には圧倒的な重圧がのしかかる。
師弟の心のドラマを描く密着ドキュメントに加え、スタジオでは見る者の心を揺さぶるジブリ映画の“絵に命を吹き込む”創作のヒミツを徹底的解剖する。

NHKナツトクnavi 夏の特集番組2010 より




鈴木プロデューサーが出演しているラジオ番組に、その答えに近づく手がかりがありました。



『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』










『ジブリ 創作のヒミツ』で米林監督に密着したのは、NHKのディレクターである細田直樹さん(31歳)。細田さんを起用したのはスタジオジブリのプロデューサーである鈴木敏夫さんだという。



番組は、俳優の大森南朋さん(38歳)のナレーションが付随している米林宏昌監督を主としたアニメーション映画制作の日々に密着している映像と、番組スタジオで行われているという体(てい)で、タレントの広末涼子さん(30歳)による司会進行パートで構成されていました。







2010年7月23日。スイス南部・フィーシュで観光列車「氷河特急」が脱線して、日本人女性1人が死亡、42名の重傷を含む被害者が出た事故が起こりました。
そして、24日、鉄道会社などが会見し、事故原因は設備上の問題や人的ミスが複合的に絡んでいる可能性があるとの見解を示しました。

設備の問題や人的ミスが複合か スイス脱線 | 日テレNEWS24


映像では、鉄道会社のCEOが出演し、「原因は施設の老朽化や人的ミスが重なった複合的なもの」と発言していました。
(事故調査の最終段階で、原因は「運転士が制限速度を超えて運転した人的ミスだった」との結論に達した、とのことです)


複合的な要素に基づく結果。
スイスの脱線事故がどうであったかは別として、いくつかの要素が複雑に絡み合って起こり得た結果、というのは理解しがたい、といいますか、把握しきれないようです。

その割合がどんなものであれ、最も多くを占める要素にフォーカスを当てなければ大衆は満足しない、という傾向にも当てはまるようです。











『ジブリ 創作のヒミツ』ではタイトルの通り、「アニメーション制作会社であるスタジオジブリの後継者養成」、「新人監督の大抜擢」、「宮崎駿監督という存在」に焦点が当てられていました。








「一番責任を背負った(しょった)人間が必死に考えて、これがよかろうってとこに辿り着くしかないんですね」

「ああしろ、こうしろっていう風に、細々と注文をつけるのは、やっぱり角を矯めて牛を殺すことになるんです。だからそれはやっぱりやっちゃいけないとこなんですよ。乱入するのは一見簡単だけど、それで鼻面つかまえてあっち行けこっち向けってやってね、いい結果になるはずはないから」


少し痩せたように見える宮崎駿監督は言う。


そして、「自らが監督を務められるのはあと一本」だとも。







『鈴木敏夫のジブリ汗まみれ』の中で細田直樹さんが出演しているのは、第138回と第150回。

この、NHKのディレクターである細田直樹さんという方は、非常に強い特徴の声をしていました。

その声から、他者にコントロールや誘導されることを極端に嫌い、自分の信ずる道を何よりも優先する。そういう印象を受けました。




スタッフと極少数の関係者のみで行われた『借りぐらしのアリエッティ』の初号試写会。

絵コンテもラッシュも一切見なかった宮崎駿監督が完成した映画を見て、どういう反応をするのか。誰もがそれを見守っていた。
上映後、宮崎駿監督は米林監督の手を取り、高く掲げた。そして「彼は本当によくやりました」と言う。

父親が息子を褒めるように。

場内は拍手が鳴り続けていた。





それを映像に撮っていた細田さんはその時のことを振り返り、こう言う。
「マロさんの側に一瞬完全に立って、良かったと思いましたけども。ふと、これは本当に100%本心なのか、何10%かは立場とか存在としての役割としての意識があっての行動なのかと思いましたし、今でもその割合は本人のみが知る――本人もどれくらい認識されているか分からないですけれど、今もってまだ藪の中です」

鈴木プロデューサーはこう返す。
「でも終わった後ね。控え室に入ったでしょ。あの時の宮さんはどういう感じでしたか?」

細田
「あの宮崎さんを見ると、パフォーマンスじゃない、というか」

鈴木
「興奮なんですよ、あれは」

細田
「そうですね」

鈴木
「何しろ本人は、マロが(控え室に)来た瞬間、なんて言っちゃったか。『おれ、泣いちゃったよ』て言ったんだよ。あれは何ですか?」

細田
「また、これ難しいんです。泣いちゃったよの意味っていうのは」










そして、終盤。

鈴木
「マロは面白いやつですか?」

細田
「面白いですね。まだね、これだけ居させてもらって分かんないと思ってることの方が遥かに多いんですよね。つかめない感じがするんです。同僚の方たちも(マロのことは)つかめないと言ってる方が多かったですね。誰か、私はマロさんのことをつかんでる、という風に自信を持ってる方が果たしているんだろうかとも僕は思っています」

鈴木
「つかんでみたくないの?」


(中略)


鈴木
「次、マロが作るときにね、細田さんも手伝ってみたいと思わない?」

伊平容子さん(アシスタント・プロデューサーと思われる)
「えっ、鈴木さんと宮崎さんのような、そういう関係ってことですか?」

鈴木
「いや、分からない。それは自分がどう受け止めるか」

伊平
「一生で、まあ、何人の人と真剣に向き合うかっていうことも含めて」

鈴木
「そうそうそう」






鈴木
「やるべきだと思うよ」

















宮崎駿監督が(少数の人に痛烈に批判されながらも)これほど多くの人々に評価されているのは、もちろん、いくつかの要素が複合的に重なっているからです。

アニメーターとしての高い能力。魅力的なキャラクター造形。膨大かつ実践的な知識量。実感を伴う高い空想力。他者を圧倒する個性、が挙げられます。

そして、それら全てを総動員し、物語の深みに誰よりも深く潜ることで、非常に優れたストーリーの語り手と成り得ています。




その能力は『千と千尋の神隠し』で最大限に発揮され、『ハウルの動く城』である到達点に達しました。




あれほどまでに深く物語に潜り、この二作品を残せたことは驚異的なことです。













海の上のブイのようにいくつかの疑問が浮かんできます。


米林監督に物語を語る能力は備わっているのでしょうか。

そして、もし、次回作があるとすれば、細田さんは何を考え、どう動くのでしょうか。

2010年8月14日土曜日

『アドベンチャーランドへようこそ』

  



映画『ゾンビランド』に主演し、デヴィッド・フィンチャー監督最新作『ソーシャル・ネットワーク』にも主演が決定しているジェシー・アイゼンバーグ。





(本当のところはともかくとして)筋肉質ではなくどちらかというと細身で、常に悲哀を含んだ表情をし、神経質的な側面を持っている。

なぜだか知りませんが(常に強い人間像にはリアリティがない、というのが理由の一つみたいです)、ここ最近の若手男性俳優が演じる役柄に当てはまる特徴だと思います。




マイケル・セラであったり、


ジョセフ・ゴードン=レヴィットであったり、



ポール・ダノであったり、


ロバート・パティンソンであったり、








こんなことを書いてはなんですが。上記の中でも一番売れ線ではないような感じ(失礼ですよね、ほんとに)がしているジェシー・アイゼンバーグですが、ここ最近の出演作の当たり感は一体何なんでしょうか。


20世紀を牽引した(気づく、気づかないは別として、その牽引は2001年をもって消滅しました)アメリカ合衆国ニューヨーク市のユダヤ系の家庭に生まれ、

道化師の母親と大学教授である父親を持つ。ニュージャージー州にある高校を卒業後、ニューヨーク大学へ進学して映画学科を専攻。 1999年にテレビシリーズの『ゲット・リアル』で俳優デビューを果たし、テレビ映画やインディーズ映画などでキャリアを重ねていく。

ジェシー・アイゼンバーグ - Wikipedia

実の妹であるハリー・ケイト・アイゼンバーグは、映画『ポーリー』の主演で有名になりました。








そんなジェシー・アイゼンバーグの当たり出演作が『アドベンチャーランドへようこそ』です。

なんと劇場未公開。







1987年アメリカ、夏。
なんだかんだあって、夏休みの間、田舎町にある家族経営で成り立っているような小規模な(しょぼい)遊園地"アドベンチャーランド"でバイトしなきゃいけなくなったジェイムズ・ブレナン(ジェシー・アイゼンバーグ)。

その"アドベンチャーランド"でジェイムズ・ブレナンは個性的な友人や魅力的な少女に出会い、なんだかんだあったりします。








監督は『スーパーバッド』のグレッグ・モットーラ。


共演はクリステン・スチュワート。










『アドベンチャーランドへようこそ』 (『ADVENTURELAND』)
(2009)

監督,製作,脚本,グレッグ・モットーラ(Greg Mottola 1964 - )

製作,シドニー・キンメル(Sidney Kimmel - )

製作総指揮,ウィリアム・ホーバーグ(William Horberg - )

出演,ジェシー・アイゼンバーグ(Jesse Eisenberg 1983.10.05- )

クリステン・スチュワート(Kristen Stewart 1990.04.09- )

マーティン・スター(Martin Starr 1982.07.30- )

ビル・ヘイダー(Bill Hader 1978.06.07- )

ペイジ・ハワード(Paige Howard 1985.02.05- )

クリステン・ウィグ(Kristen Wiig 1973.08.22- )

マルガリータ・レヴィエヴァ(Margarita Levieva 1980.02.09- )

ライアン・レイノルズ(Ryan Reynolds 1976.10.23- )


























2010年7月28日水曜日

Pain is temporary. Quitting lasts forever.





『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』(『It's Not About the Bike』)

著者,ランス・アームストロング,サリー・ジェンキンス

訳者,安次嶺佳子

出版社,講談社










アメリカ合衆国テキサス州出身の自転車レースの選手、ランス・アームストロング(Lance Armstrong 1971.09.18- )。


一九九六年、精巣腫瘍を発病。癌は肺と脳に転移していた。過酷な化学療法を受け、再起をはかり、そして見事にそれを果たした。

果たしたなんてものではなく、癌の闘病後に世界最大の自転車レースであるツール・ド・フランスに出場し、前人未到の七連覇(1999-2005)を成し遂げる。






この本は、病に倒れ、そこから再起したランス・アームストロングの闘病生活を主とした選手生活が記されている。




そもそも自転車レースのことを知ったのは、黒田硫黄著『茄子』からだったが、そのときは知ったといっても踏み込んで知るまでの興味は湧かなかった。






だが、2007年のツール・ド・フランスを見て、見事にはまった。







そこで読んだのがこの本『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』だった。


タイトルの"Pain is temporary. Quitting lasts forever."もこの本の中の言葉から。

痛みは一時のもの、引退は引きずり続けてしまうもの と訳してみました。








癌に侵され、常に死を意識し、それに向き合う記述を読むのは気が重くなるが、中には素晴らしい描写もあり、何よりそれは真実に触れ、心に沁みるものだった。



まるで読み手が自転車に乗っているかのような気持ちになったのがこの描写。

毎日放課後、僕は一〇キロ近くをまず自分の足で走った。それから自転車に乗り、夕闇の中をこぎ出していく。こうして自転車に乗るうちに、だんだんとテキサスが好きになった。田園風景は寂しかったが、とても美しかった。広大な牧場や綿畑の中を貫く田舎道、見えるものといえば遠くの貯水塔や大型穀物倉庫、崩れかかった納屋くらいだ。草は家畜に食べ尽くされ、土はカップの底に残ったひからびたコーヒーのようだった。なだらかに続く草原に、木がたった一本、風で奇妙な形になっているのを見ることもあった。しかしたいていは走れども走れども、目の前にあるのは平らな黄色がかった茶色い平原や綿畑で、時折ガソリンスタンドがある以外は、ただただ平坦なだだっ広いところに強い風が吹いているだけだった。

―『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』より抜粋





その道に長けた人がみなそうであるように、自分が専門としている分野の捉え方の延長線上に世界を見て、捉え、考えて、的を得た総括を獲得している。ランス・アームストロングもそうだと言える。




ある記事の中で、僕がフランスの丘や山々を「飛ぶように上っていった」という表現があった。でも丘を「飛ぶように上る」ことなどできない。僕にできることは、「ゆっくりと苦しみながらも、ひたすらにペダルをこぎ続け、あらゆる努力を惜しまず上っていく」ことだけだ。そうすれば、もしかしたら最初に頂上にたどり着けるかもしれないのだ。

― 『ただマイヨ・ジョーヌのためでなく』より抜粋






はかり知れない喪失を体験し、再起を果たしたランス・アームストロング。



闘病後に出会った女性と結婚し、子も授かった。そして離婚を経て、一時は現役を引退していたが、2008年に現役復帰を表明し、2009年アスタナ・チームに加入しレースに出場、同年のツール・ド・フランスで総合優勝を果たしたチームメイトのアルベルト・コンタドールをアシストし、自身も総合三位に入賞。現在はチーム『Radio Shack』に在籍し、レースに参加している。







2010年7月27日火曜日

メキシコ湾、原油流出のBP社、周辺地域の科学者を買収

(前出の投稿)メキシコ湾原油流出が冗談抜きでヤバイ件




グランド・アイル島で取れた魚の腹を押すと原油が出てくるそうです。













原油流出のBP社、科学者たちを「囲い込み」



BP buys up Gulf scientists for legal defense, roiling academic community | al.com


News: Oil Debate Spills Into Academe - Inside Higher Ed




メキシコ湾の原油流出事故を起こしたイギリスに本拠をおくエネルギー関連企業BP社は

最高250ドルという時給

と引き換えに

「科学者たちが研究を発表したり、ほかの科学者たちと研究を共有したり、少なくとも今後3年間に集めたデータについて語ったりすることを禁じている」

といった内容の契約を交わそうとしているという。





すばらしいね、企業のやり方。

株主の利益を守るためにどこまでするのでしょう。





「一人の死は悲劇だが、集団の死は統計上の数字に過ぎない」



そう言って、数百万人のユダヤ人を収容所へと送る輸送経路を確保したアドルフ・アイヒマンが浮かんできます。




BP社の最高経営責任者(CEO)であるトニー・ヘイワード。





企業の傀儡だとしても、それ以前の責任たるものがあるとは思うのですが、それすらも…という印象が強い。









企業活動が引き起こした被害の事例をあげ、診断する。
つまり、資本主義下での企業の活動の総体を、一個人の言動として分析し、心理学的に診断してみるとどういう結果となるのか、ということを実証した映画『ザ・コーポレーション』も思い出した。






映画の中であげられた事例は

“解雇”

“組合つぶし”

“工場火災”

“奴隷工場”

“危険な製品”

“有害廃棄物”

“汚染”

“合成化学物質”

“生息地の破壊”

“畜産工場”

“動物実験”







チェック・ボックス式診断テストのように映像は続く。

□ Callous unconcern for the feelings of others.
“他人への思いやりがない”

□ Incapacity to maintain enduring relationship.
“関係を維持できない”

□ Reckless disregard for the safety of others.
“他人への配慮に無関心”

□ Deceitfulness : repeated lying and conning others for profit.
“利益のために嘘を続ける”

□ Incapacity to experience guilt.
“罪の意識がない”

□ Failure to conform to social norms with respect to lawful behaviours.
“社会規則や法に従えない”




診断結果は・・・








明らかに精神病的な特性を持つ企業。

もっともやっかいな点はセラピーを受け付けない―というか、セラピーを受け付け正常性を取り戻した企業は最早企業ではなく、少数で成り立つコミューンのようなものになってしまうでしょう―ということでしょうか。



企業はこの先も異常性を抱えたまま行けるところまでごり押しで行くでしょう。

その先は…。