2010年3月30日火曜日
あいさつ
ジョギングをするとき、僕はいつも家近くの川沿いの道まで歩いていきます。それは今日も同じでした。
都内を流れるその川沿いの道にはたくさんの桜の木が植えられていて、暖かい季節になると散歩する人々でにぎわう遊歩道になっています。今年の春は少し寒いので、桜の開花はまだですが、ときどき訪れる暖かい昼の陽射しは春の訪れを感じさせ、ここ数日の寒さを忘れさせてくれます。
結局のところ、健康を維持するには運動するしかないのだろう、と多くの人が気づいたのか。またエイジングに太刀打ちできるのは運動の末に得られる健康体なのだと気づいたのか。理由はともあれ、老若と男女に関わらず、歩いたり、走ったり、スポーツタイプの自転車に乗ったりしている人をたくさん見かけるようになりました。
今日もたくさんの人が歩いたり和んだりしている川沿いの道に着きました。軽めの準備運動とストレッチをして走ります。本当なら、準備運動とストレッチは入念にしたほうが身体にいい。故障も減るし、走者としての寿命も長くなる。だけどいつも省略してしまう。そのぶん、ジョギングの1周目を慣らし運転のようなものとして準備運動代わりにして済ましてしまいます。
そうして少し速めのペースで6km。およそ30分で走りましたから、1kmを5分のペースで走ったことになります。
川沿いを走る。橋わたる。向こう側の川沿いを走る。橋わたる。スタート地点に戻る。腕を振り、足を前に出す。身体を動かし、新しい空気を取り入れる。体の中の空気が入れ替わるところを想像し、全身を流れる血液が若返っていくところを想像する。筋肉が動き、熱を帯び、エネルギーが燃焼しているとこを想像する。そして熱を帯びた筋肉を冷やすために体から水分が出ていき、それが蒸発するところを想像する。そうやって身体を動かし汗を流すことを心地よく感じることができるのを幸せだと思う。
まだ陽があるうちに走り始めたのですが、しだいに陽は暮れ、暗くなっていきます。
と、背後から「すいません」という声がする。
走るのやめ、振り返ると一人のおじいさんが桜の植え込みにしゃがみこんでいました。おじいさんは痩せていて薄着でした。僕が近づくと「すいません、立てなくなって」とおじいさんは言いました。
おそらく、散歩にでかけ、歩いているうちに少し疲れ、植え込みに座ったのはいいが、足腰が言うことをきかなくなってしまって立てなくなったところに僕が通りかかった。
ということなんだろう、と想像しました。身体を冷やしたのかな。
僕は手を貸し、おじいさんは立ち上がる。
そして「どうもありがとう」とおじいさんは言い、僕は「気をつけてください」と言いました。そしておじいさんは僕が走るのとは逆方向に歩いていきました。
この話のポイントは、僕の善行の告白なんかではなく。僕の走るときの格好です。
肌寒く感じる季節に走るとき、僕は上下ともに黒のジョギングウェアで、頭には黒のニット帽を目が隠れるまで目深にかぶります。もっと寒いときは黒の手袋をして走るので、全身のうち黒でないものはシューズと少し見える顔の下半分くらいです。
自分でそういう格好をしていてなんですが、普段通りかかって声をかけやすい姿ではありません。むしろ、高い塀と鉄条網で囲まれた建物に警報が鳴り響き、サーチライトがぐるぐる辺りを照らし出しているところにいても不自然ではない格好です。
要は不審者寄りということです。あのおじいさん、そんな僕によく声をかけたな、と。それほど困ってたんだろうなと思いました。
後姿のおじいさんと別れ、再び走り始めた僕は知人に動物嫌いと決めつけられたときのことを思い出した。
その女の子は次の休みの日に彼氏と上野動物園に行くんですと言った。そうなんだ、と僕は返事した。「でも、またなんで動物園に」と僕は聞いた。
「動物が好きだからです」とその子は答えた。そして、僕みたいな人はどうせ動物なんか嫌いだから動物園なんかには興味がないだろう、とその子は言った。あまりにも失礼をかえりみない気持ちに満ち溢れた発言に思わず笑ってしまった。
「いやいや、そこの町娘や待ちなさい」と僕は言った。
「上野にある動物園に行きたいか行きたくないかは別として、動物を好きか嫌いかでいうと針は好きのゾーンに振れているよ」と。
現に、いつもジョギングしている道に最近かわいい猫の親子が現われるんだよ、と。
「で、その猫の親子を蹴飛ばしてるんですよね」と町娘は言う。
なんて偏った見方で見られたものだろう。
それとも、そんな見られ方をされても仕方がない由縁みたいなものを普段の僕は出しているのだろうか。
先日、重そうなスーツケースを抱えてる人が地下鉄の駅の階段を降りてたから持ってあげたりしたことを僕は思い出し、その町娘に言った。
「それはその子がかわいかったからでしょう」と町娘は返す。
スーツケースが重そうに見えたのは後姿だ。そこから前に回りこんで顔を見て、かわいいかどうかを判断してスーツケースを持ってあげたのではない。
僕はそのことを言うかわりに町娘から遠ざかり、ここまでの言われ方をする原因が自分のどこにあるのかを考えた。
ときに人は真実とは別の、自分が信じたい人物像を捏造しそれを誰かにあてはめ、そのことに気づいてさえいないときがある。今自分の目の前にいる町娘がそうなんだろう。
僕が自分を納得させるために出した答えがこれだった。そして、気づいてすらいない人に虚像と実像の違いを説いたところでその時点のその人の心には届かないことを知っていた。
町娘め。まだまだ町娘だな、とわけの分からないことを思ってみたりした。
そういえば、家の近くの王将でビールを頼んだとき、年齢を確認できる身分照明を見せてくれと言われたことがあります。「35歳なんだけど」というと、「一応念のため」と言われた。隣にいた友人は事の次第を可笑しがって見ていた。
35歳が19歳に見えるときがあるのか。35or19だ。はっきりと違う。簡単な話じゃないか。それくらいの見分けもつかないんだこの子は、と思った。
家の近くのスーパーで缶ビールを買ったときも、年齢を確認できる身分証明書を見せてくれと言われたことがある。それも二度。
おそらくこれは、僕が何歳に見えるのかなんていうことではないのではないかと僕は思った。その店の店員は、店長か上司の人から年齢確認のマニュアルを徹底されすぎたのだろう。条件反射的な身分証見せてくれなのだと。そう思わないと納得できなかったのでそう思うことにした。
もし、そうじゃなければ、僕は19歳にも見える35歳だということだ。ひょっとしたらそうなのかもしれない。そして、警報が鳴り響き、サーチライトがぐるぐる辺りを照らし出している中を全身黒ずくめで走り回って、あげく道端に現われる猫の親子を蹴飛ばしているのだと。
そんなやついるのか。
長々とどうでもいいことを書きましたが、今日からブログ始めます。
よろしくお願いします。
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