いつものジョギングコースを10500m走る。
タイムはだいたい50分でした。
ということは1kmを5分。 そんな早いペースで走ってたのかな。 ひょっとして1周(1500m)間違ってカウントしてしまってたのかもしれません。
12月24日
もちろん、前提として、僕の目が曇っていて、さらに歪んでいるからなのだろうけども、街を歩く男女二人の姿を見ると思わず笑ってしまう。
クリスマスというボールを手にした投手が、大げさなモーションで振りかぶって、そおっとストライクを置きにいっているように見える。
笑ってしまっていて「いや待てよ」と考える。
1年365日、すべての日において街中で歩く男女二人の姿を見ることができるはずだ。
なぜ、この日だけどこか可笑しげな光景に見えるのだろう。
答えは着飾り感だと思います。
肩に力が入っちゃって、背伸びもして、この日に挑んでいる、という様子が見て取れるからだろうと。
(実年齢はともかくとして精神的に)若い人に多く見られるようです。
自然体でいいのにね、と思える日は彼ら彼女らに来るのだろうか。
それとも、それらも含めて特別な日として楽しんでいるのだろうか。
僕には特別な日を特別視することを嫌う友人がいます。
彼いわく、誕生日だとかクリスマスだとか、決まった日、決まったタイミングで何かを祝うのはそれ以外の日をおろそかにしている、のだと。
平和と安定を好み、波風を嫌う女性にとっては面倒極まりないことかもしれませんが、すべての日が特別なんだよという彼の主張は「なるほど、そうか」と思える部分がないわけではない。
その友人のもうひとつの特徴として、彼が誰かのエピソードを話すとき、それらすべてがコテコテの関西弁になる、というのがある。
関東出身の後輩のエピソードであろうと、チャイニーズ系の女の子のエピソードであろうと、彼が再現するとコテコテの関西弁を喋っている体になる。
「いや、実際はそんな風には喋ってないよね。モノマネしてくれとまでは言わないけれど、せめて少し寄せる努力があってもいいんじゃない」と思うが、彼が育った大阪の土壌というのは彼自身の中に深く強く根付いているので、そこを否定すると彼を否定してしまうことになるのかなと思って言わないでいる。
そのほうが良いとは思うけれども、笑いを交えて言ってしまう。
という思いが交錯している街中。
本屋に立ち寄るとそこにはジョン・アーヴィングの新著がありました。
「oh my (god)」
冗談でもなんでもなく思わず声に出てしまいました。
ジョン・アーヴィングの新著。
出すんだ。
また読めるんだ。
生きてみるもんです。
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