アメリカ、サンフランシスコに住む一人の男性。
彼は子どものとき、病気にかかり感染症を起こし高熱を患う。
それによって脳と脊髄が炎症を起こし、脳脊髄炎になった。
首の後ろを切開する手術は8時間を超え、一時的に臨死を経験する。
医師の蘇生によって命は取りとめ、病も克服し、回復に至った。
だがそれ以降、原因不明の偏頭痛が起こるようになった。
そしてこれまで見たこともないような悪夢を見るようになる。
もし、すべての始まり、兆しと呼べるものがあるとすればこの時点だったのかもしれない。
ある日、友達の隣に座っていると、見覚えのない一人の女性の姿が見えてきた。
幻覚にしてはあまりにもくっきりと見える女性のことを友人に話すと、友人には女性は見えていなかった。
その女性の特徴を友人に話すと、それは友人の母親にそっくりだった。
だが、友人の母親は前の週に亡くなっていた。
日が経つにつれ死者のヴィジョンを見る機会は増え、病院に連れて行かれたが医師は『受動型統合失調症(passive schizophrenia)』と診断。
多量の薬を与えられ、それを飲むとヴィジョンは収まったが、正気なのかどうかさえ分からない状態になった。
事あるごとに見る死者のヴィジョンに耐えるか、薬によって人生を失うか、少年は決断を迫られ、選んだ。
『死者の世界と接触でき、死者と対話できる』
近親者の死で悲しみに暮れる人々にとってそれは大事なものと引きかえにしてでもすがりたい能力だった。
兄ビリー・ロネガン(恐らくは歳の近い兄弟、ひょっとしたら二卵性双生児なのかもしれない。ジョージは自分のことをベイビーブラザーと言っていた)は違う目でそれを見ていた。
弟の能力を使えば大金を得ることができる。そう考えた兄は仲介者となり、ウェブサイトを立ち上げ、霊能商売を始める。
霊視はジョージ・ロネガンに何を与えたのだろうか。
多くの生者と対面しても、彼らが見ているのは自分ではなく死後の近親者の姿だった。
そして、自分が求められ見ているのも死者の世界にいる人々ばかりだった。
ジョージ・ロネガンは、死者が生きている間に伝えられなかったことを自分の言葉を通して彼らに伝えた。
それは、後悔と懺悔の念であったり、どれほど愛してたかということや感謝の気持ちであったり、また、何らかの警告だったりした。
多くのカウンセラーにとって対面するすべての人々が(ケーススタディという側面では)クライエントであるように、ジョージ・ロネガンも接触するすべての人々を(自分の意思に沿わない場合でも)霊視した。
まともな人間関係が築けない。
少年期から現在に通じてジョージ・ロネガンに密接する悩みだった。
自分に与えられた能力は(兄が言うような)gift(才能)などではなく、curse(呪い)だと感じるようになっていった。
そうしてあらゆる霊視をやめ、人との接触から遠ざかり、建築現場で働き、(まあなんとか)生活できるだけの収入を得るようになった。
マリー・ルレ
フランスのテレビ局のキャスターを務める女性ジャーナリスト。
彼女は休暇を利用して、同じテレビ局でプロデューサーを務める恋人ディディエとタイのビーチ・リゾートに来ていた。
最終日の朝、八時頃だった。彼女は旅の土産物を探すため一人で地元市場を歩いていた。
そこで彼女はスマトラ島沖地震による津波に飲み込まれてしまう。
突如として現れ押し寄せた濁流は彼女を死の中心まで引きずり込もうとし、彼女はそれに抗った。
だが、抵抗は空しく、彼女は激しい津波の流れに飲まれてしまう。
水の底に向かう彼女の意識が遠のいた時、周囲は動きを遅め、スローモーションのようになった。
死がもっとも彼女に近づいたとき、彼女はこれまでに見たことのない光景を見る。
明るく広大な場所にいくつもの人影がある。
見たことのない人影と、見覚えのある人影。それは同じくして津波に飲まれた人々だった。
その人影は何かをささやいているが、ささやきが重なりあってうまく聞き取ることができない。
見覚えのある人影がクリアに見えかけ、ささやきがうまく聞こえそうになったとき、その明るく広大な場所は彼女を突き放すように去って行く。
奇跡的に生還した彼女は生と死の境界線を二度またぐということを経験した。
その経験はマリー・ルレに何をもたらしたのか。
彼女は日常に戻り、テレビ局に出社し、控え室でメイクを終え、自分の目の前にある鏡をじっと見つめた。臨死以前と以後の違いを鏡に映る自分の姿に見つけ出そうとしていた。
臨死後、始めてキャスターの椅子に座る。
六台のカメラが彼女を捉えている。別室にあるサブ・コントロール・ルームにはプロデューサーであり恋人であるディディエが控えていて、その指示がイヤホンを通じて聞こえている。
オンエアが始まり、ゲストに迎えた大手アパレル会社のCEOに対し、東南アジアでの児童労働とその雇用条件の実態について鋭く切り込み、攻めるシナリオができていた、はずだった。
番組の本番中、追求を言い逃れるCEOを前にして、彼女の脳裏に浮かんだのは臨死のときに見たあの光景だった。
自分が見たあの光景はいったい何だったのか。
そのことばかりを考えるようになっていった。
恋人のディディエは番組のプロデューサーとして仕事に身の入らない彼女を見ていた。
そして一時的な休暇を取るよう彼女に提案する。
彼女は休暇を利用して以前から考えていた執筆活動に専念しようと決める。
言い換えればそれは、何かをしていないと常にあの光景が頭に浮かぶからだった。
だが、執筆していようが、何をしていようがあの光景は常に彼女の頭に浮かんだ。
そして彼女は自分が見た光景のこと、死後の世界、臨死についてを題材とした本を書くことを決意する。
双子の兄弟、マーカスとジェイソン。
イギリスのロンドンの母子家庭に育つが、母親のジャッキーは重度のアルコールと薬物中毒者である。
そんな実態を知る児童福祉局の役人は度々来訪しているが、マーカスとジェイソンは協力して薬とアルコールでよれよれのジャッキーが親権を喪失しないよう取り繕う。
理由はいたってシンプル。双子の兄弟は母親と一緒にいたいからだ。
だがある日、母親に頼まれた薬(ナルトレキソン塩酸塩の処方箋。母親は薬物中毒から抜け出そうとしていた)を薬局に取りに行ったジェイソンは地元の悪ガキに襲われ、追いかけられる。
全速力で逃げ、道に飛び出したジェイソンの前にベンツ社製の大型のバンが現れ、ジェイソンは撥ねられる。
ジェイソンの身体は宙を飛び、路上駐車していた車のフロントガラスに叩きつけられる。
右心室を失った心臓が機能しなくなるのと同様に、マーカスはジェイソンを失い、事の流れに対処しきれず、更生施設に行く母親とも離され、里子として他人の家で養われることになる。
「死をまたぐ」経験をした人に共通して言えることは、それ以降、常に生と死の境界線を意識せざるを得なくなることだろう。
当たり前の生があると同様に、当たり前の死を常に有している自分を認識し続ける。
この感覚は経験していない人とは共有できない。
話していて、触れていて、はっきりとした違和感に気がつく。違和感を感じた相手とは何をしても腑に落ちていかない。話す言葉も触れる体温でさえも仮そめのものに思える。まるで投影されたホログラムと接しているような感覚。
ジョージ・ロネガンとその兄ビリー・ロネガンがいい例だ。
ジョージは偏り限られた対人関係しか築くことのできないことに悩みを抱き、兄は弟の本質を見ることもなく世俗に満ちた金儲けに走る。
そして、ジョージ・ロネガンは悩みである対人関係を克服しようと料理教室に通う。
そこで一人の女性メラニーと出会い、週に一度の料理教室を通じて個人的な(霊媒を除いた)関係を築いて行く。
だが、呪いは彼に重く圧し掛かる。
誰かと触れることで見たくなくてもその背景が見えてしまう。死者の世界と接触して見えるのは知らない誰かの亡くなった近親者の姿だった。その姿はジョージ・ロネガンに感情や言葉を唐突にぶつける。
だからこそ、彼は人を避け、触れることから極端に遠ざかってきた――単なる握手でさえも彼にとっては致命的な瞬間だった。
ある日、ジョージはメラニーを部屋に招き入れて食事を作ることになったが、交わした会話で以前は霊能力者として活動していたことを打ち明ける。
好奇心から自分を見て欲しいとメラニーは頼み、ジョージは渋々了承してしまう。
メラニーに触れたジョージが見たのは背の高い女性と、黒い髪の男性、そして男性に連れられている少女の姿だった。
女性は母親、心臓発作で亡くなっていた。男性は父親、去年亡くなったばかりだった。だが、ジョージは言わないほうが良いと判断したのか少女のことは何も言わなかった。代わりに父親の言葉を代弁した。
“すまなかった” 父親はその言葉を繰り返していた。
井戸から汲み上がる水を待つ砂漠の民のような顔をしてメラニーはジョージを見ていた。
だが、死者が生きている家族に対してする懺悔は良くない流れだった。
遠い過去に封じ込めた出来事がよみがえり、埋もれていた傷口が開き、その人は再び深く傷つくことになる。ジョージは経験からこのあと起きるだろう事の展開を察知していた。
“ずいぶん昔に酷いことをした” “いつの日か許して欲しい” 父親はそう言っていた。
メラニーの感情は大雨の後の合いまみれた濁流のように彼女の内側からあふれ、そして涙として外に流れた。
霊視を終え、身の置き場を失ったメラニーは立ち去ってしまい、再びジョージの前に現れることはなかった。
ジョージはチャールズ・ディケンズの朗読テープを聴く独りきりの生活に戻った。
朗読テープの声はこう言っていた。
“The old, unhappy feeling that had once pervaded my life came back like an unwelcome visitor, and deeper than ever. It addressed me like a strain of sorrowful music a hopeless consciousness of all that I had lost all that I had ever loved. And all that remained was a ruined blank and waste lying around me, unbroken to the dark horizon.”
かつて 僕に取りついていたあの不幸感が招かれざる客のように心の奥深くによみがえった
僕の中で悲しみの旋律が響き渡る 絶望を感じた失ったものすべてに愛したものすべてに
あとに残された空虚さと荒廃だけが僕のまわりに広がり闇の地平線まで続いた
「リトル・ドリッド」の一節だった。
ここで不思議に思ったのがジョージの部屋の構造でした。
まず玄関。壁には彼がもっとも敬愛する小説家チャールズ・ディケンズの肖像画が飾られています。
そしてキッチン。彼はいつもここにあるテーブルで食事をする。メラニーを招いて料理を作っていたのもここでした。
冷蔵庫には兄とその子供が写っている写真が貼られている。
そしてキッチンの隣にあるのがリビング・ルーム。彼はここで兄に頼まれた人やメラニーを霊視した。自然光が入らない時間帯は部屋はいつも暗く、スタンドのライトしか光源がない。何か意味ありげな絵画が多く飾られているのが印象的です。
このリビング・ルームにもうひとつのテーブルがあることに気づきます。
しかもそれはキッチンにあるテーブルとほぼ同型であり、しかも並列して置かれている。
だが、ジョージがリビング・ルームにあるテーブルに座っているシーンは一度も出てこない。
にも関わらず、テーブルの上には調味料やワインのボトルが置かれている。
光源がないと前述しましたが、この部屋にはそもそも室内灯のスイッチがないことにも気づきます。
カバーだけがあります。ということは意図的に暗くしていると解釈できます。
明るいキッチンにあるテーブルで食事をとる。
そして暗いリビング・ルームで霊視し死者と接触する。
明と暗、生と死。二つの部屋は対照的に存在しています。だが、リビング・ルームにあるテーブルは誰のためのものでしょうか。陰膳のような意味合いを持っているのか、はたまた違う意味合いがあるのか。
勤める会社の希望退職者リストに載ったことをきっかけにジョージ・ロネガンは今まで生活していたサンフランシスコを離れ、チャールズ・ディケンズ・ミュージアムを訪れるためにロンドンに向かう。
そこで常日頃聴いていたデレク・ジャコビによるディケンズの朗読会がロンドン・ブック・フェアで開催されることを知る。
死後の世界での体験を本にまとめたマリー・ルレは出版社の意向でロンドン・ブック・フェアで朗読会をすることになる。
家族を失い、里親の保護下にあるマーカスは、アレクサンドラ・パレスに連れて行かれる。
そこには以前の里子で今は一人立ちしているリッキーが警備員として勤めていた。里親は無口で心を開かないマーカスをリッキーに会わせれば何かが変わると思ったからだった。
会場の中ではロンドン・ブック・フェアが行われていた。
ジョージ・ロネガンとマリー・ルレ、そしてマーカスの人生はそこで交差する。
ジョージ・ロネガンはマリー・ルレが宿泊するメイフェアー・ホテルを訪れ、メッセージを残す。
内容は、著書の感想、自分の身に起きたこと、これまで体験してきたこと、そして朗読会で見たヴィジョンについて書かれていた。
マリー・ルレはそのメッセージを読み、ジョージ・ロネガンと会う。
待ち合わせした場所にマリー・ルレが現れ、ジョージ・ロネガン(不意な接触による霊視を拒む彼は手袋をしていた)の姿を探す。
そんな彼女の姿を見たジョージは不思議なヴィジョンを見る。
立ち上がり、近づいた二人は親密にキスをした。そしてジョージ・ロネガンはマリー・ルレの手を強く握る。
今まで困惑し、悩み抜いたものごとがクリアになり、すべてがうまく行きそうな予感がジョージ・ロネガンを包んでいた。
実際の彼は彼女の名を呼び、手袋を取って彼女に手を差し出した。
ここでまた疑問が浮かぶ。
触れてもいないマリー・ルレとのヴィジョンを見たのはなぜだったのか。
ひょっとしたら、兄にも誰にも言ってはいないが、ジョージ・ロネガンは生者と自分とのヴィジョンも見えていたのではないだろうか。
考えてみれば、メラニーと通った料理教室で、相手に目隠しをして食べさせた食材を当てさせるというクイズ形式の一幕があった。
イタリア産の高級ワイン(バルバレスコ)を飲みながら、感情昂ぶるオペラ(プッチーニ作曲のオペラ『誰も寝てはならむ』)を聴き、スプーンですくった食材をメラニーの口元に運ぶ。
映像的には恋人がキスを求めるといった官能的な印象に満ちている。
だが、ジョージ・ロネガンにはメラニーとうまくいくヴィジョンは見えていなかった、と推測もできる。
それがマリー・ルレとだとうまくいく。
生と死、その境界線を越えたもの同士でこそ見えたヴィジョンなのかもしれません。
監督,製作,音楽,クリント・イーストウッド(Clint Eastwood 1930.05.31- )
製作総指揮,スティーヴン・スピルバーグ(Steven Spielberg 1947.12.18- )
脚本,製作総指揮,ピーター・モーガン(Peter Morgan 1963.04.10- )
撮影,トム・スターン(Tom Stern 1946.12.16- )
衣装デザイン,デボラ・ホッパー(Deborah Hopper - )
出演,マット・デイモン(Matt Damon 1970.10.08- ) ...George Lonegan
セシル・ドゥ・フランス(Cecile De France 1975.07.17- ) ...Marie Lelay
フランキー・マクラレン(Frankie McLaren - ) ...Marcus / Jason
ジョージ・マクラレン(George McLaren - ) ...Marcus / Jason
ジェイ・モーア(Jay Mohr 1970.08.23- ) ...Billy Lonegan
ブライス・ダラス・ハワード(Bryce Dallas Howard 1981.03.02- ) ...Melanie
ティエリー・ヌーヴィック(Thierry Neuvic 1970.08.03- ) ...Didier
デレク・ジャコビ(Derek Jacobi 1938.10.22- ) ...Himself
映画『ヒア アフター』オフィシャルサイト
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